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その一(1〜10)はこちら


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中尾牧師へのインタビュー・その二



ミニストリーのプライオリティ―中尾牧師へのインタビュー(11)

 ―もう、九月になりました。連載期間もあとわずかになってきましたので、先生にもう少し、つっこんだ質問をしたいと思います。先生が神様から牧師としての召命をいただき、それに従ってこられたことは、良く理解できますが、牧師といってもいろいろなタイプの牧師があり、その働きも、牧師によって強調点が違うように思いますが、先生の場合はいかがでしょうか。

 <牧師>自分の教会にいる時よりも、外に出ている時の方が多い牧師もあれば、自分の町にとどまって信徒や求道者を数多く訪問される牧師もあります。ある牧師は神学校で教えたり、本を書くことを使命とし、別の牧師は、カウンセリングに多くの時間をさくでしょう。教団の仕事や社会的な事業に力を入れている牧師もいるでしょう。神がそれそれの牧師に使命を与え、それを教会が承認し、教会が成長していれば、どれが良くてどれが悪いということはないかもしれません。けれども、私は、「サンディエゴ教会」の牧師として任命された以上、私の働きののプライオリティはサンディエゴ教会の成長にあると信じています。

 ―先生の持っていらっしゃるものは、他の教会にも必要だと思いますけど。

 <牧師>そう言ってくださって有り難うございます。教会外の仕事は何もしないというのは不可能でしょう。私の言う意味は、自分の遣わされた教会の必要をさしおいて他の仕事に比重を与えないということです。私にはもっと学びが必要ですし、学んだことを人々に分かちあうのが私の仕事ですから、著作に時間をさけたらと思っています。しかしそれは教会のニードから生み出され、教会のニードに答えるものでなければならないと思います。具体的に言えば、私の書く本は、サンディエゴ教会のメンバーが第一の読者であり、また、共同執筆者でなければならない、牧師の書斎からではなく、教会の現場から生み出されたものでなければならないと思います。

 ―牧師と信徒の共同作業というわけですね。

 <牧師>教会のすべての営みは、牧師と信徒の共同作業です。会衆は良い説教によって養われ、良い聞き手が良い説教者を育てます。伝道も同じで、牧師のメッセージだけて人が救われるのではありません。人がメッセージに耳を傾けるようになるまで、多くの人が背後で働いているのです。そのことは次回お話ししましょう。



十一(じゅういち)伝道―中尾牧師へのインタビュー(12)

 ―先生、この間はテキサスに伝道にいらっしゃったそうで、ご苦労さまでした。

 <牧師>ちょっと待ってください。あげ足をとるようで申し訳ありませんが「伝道に行った」のではなく、「伝道集会のメッセージの奉仕に行った」のです。実際に伝道しているのはテキサスの教会とその先生方、信徒の方々なんですよ。

 ―でも、他の牧師先生たちは「ブラジルで伝道してきた」「日本で伝道してきた」とおっしゃいますけど…。

 <牧師>それは伝道のお手伝いをしてきたという意味です。本当にそこで伝道しておられるのは、その土地の先生方、信徒の方々です。伝道というのは牧師や伝道者ひとりでできるものではありません。

 ―先生のことばを借りれば「牧師と信徒の共同作業」というわけですね。

 <牧師>そうです。ひとりの人が主に導かれ、成長していくためにはその背後に少なくても十人以上の人がかかわっているはずです。

 ―私もバプテスマを受けた時に「あなたのために祈っていました」と言ってくださった方が何人もいらっしゃいました。

 <牧師>そうでしょう。ひとりが教会に誘い、他の人が車で迎えに来てくれ、別の人が教会で暖かく迎えてくれ、また別の人が祈ってくれ、また別の人が食事に招いてくれ、また別の人が良い模範を示してくれ、というふうに多くの人のさまざまな面からの働きかけがあって人の心は整えられ、最後に牧師のメッセージが心に入って人は信仰を持つようになるのです。牧師は伝道の働きの最後の部分をさせていただくだけです。

 ―では、私も伝道のために何かできるのですね。

 <牧師>もちろんです。すべての人は伝道のために何かが出来、何かをしなければなりません。良く「ひとりがひとりを導こう」と言われますが、私はもっと現実的に「十人でひとりを導こう」と言いたいのです。十人が心を合わせて祈り、それぞれに出来ることで奉仕していくのです。私はこれを「十一伝道」と呼んでいます。

 ―伝道は、牧師と信徒の間ばかりでなく、信徒相互の共同作業、チーム・ワークなんですね。そう思うと、私も何か出来そうな気がしてきました。チーム・ワークというのは、日本人の得意とするところですから。



伝道とあかし―中尾牧師へのインタビュー(13)

 ―ところで先生、伝道とあかしとはどう違いますか。

 <牧師>両者とも重なった面があり分けることは難しいのですが、「伝道」という時にはイエス・キリストとその救いを直接的にことばで知らせること、「あかし」というのは、キリストの救いがどのように自分の人生の中に働いているかを、主に行為、生活を通してあらわすことと言っていいかと、思います。

 ―たとえて言えば、伝道というのは、牧師が「イエス・キリストは私たちに神の愛を与えてくださる」と説教することで、あかしというのは、その説教を聞いている信徒が、お互いに愛し合い、新しい人にも心配りをすることでしょうか。

 <牧師>なかなかいいたとえですね。牧師がいくら口を酸っぱくして説教しても、信徒が神のことばに従って行動していなかったら、語られた福音が正しいということが証明されない、つまり、あかしされないということになってしまいます。

 ―あかしの伴わない伝道は、からまわりに終わってしまうということですね。

 <牧師>そうです。人々はまずクリスチャンを見ます。クリスチャンの中に自分たちとは違うものを見て、それからキリストのことばに耳を傾けてくれるのです。イエス様は「ひとびとがあなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5:16)と言われ、ペテロは「あなたがたのうやうやしく清い行ないを見て…救いに入れられるようになる」(?ペテロ3:2 )と教えています。

 ―見せびらかすのでなく、見てもらっても大丈夫なようにということですね。

 <牧師>見せようとすると、かえって見苦しい自分の姿しか出てきませんから。ただ神様の恵みにより頼んで、へりくだって歩むほかありません。

 ―それじゃ、あかしさえできていればおのずと伝道できるということでしょうか。

 <牧師>聖書は「あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい」(?ペテロ3:16)とも、教えています。クリスチャンが希望に輝いていなければならないのはもちろんのことですが、その希望をことばできちんと説明できることも必要なのです。



サポート・グループのはじまり―中尾牧師へのインタビュー(14)

 ―中尾先生といえば、「サポート・グループをやっている先生」という評判があるようですが、どうしてサポート・グループを始めようと思われたのですか。

 <牧師>そのことをお話しする前に、サポート・グループについて一言説明をしておきたいと思います。最初私が「サポート・グループ」という言葉を使った時、「サポート?誰をサポートをするんですか。それって、牧師を支える会ですか」と言われましたので。サポート・グループというのは、一般には、肉体の病やこころの病を持った人たちが、共に集まってお互いの回復を励まし合い、助けあうグループのことを言います。

 ―そういえば、病院に心臓病患者や糖尿病患者のサポート・グループというのがありました。

 <牧師>患者ばかりでなく、その患者を世話している家族も大変な重荷を背負っています。それで、お互いの経験から学び合い、共通した課題を持っている人たちが支えあうのです。教会のサポート・グループでは、家族にアルコールやドラッグの問題のある方々、アビュースや離婚などで心に傷を負った方々、自分の性格上の欠陥に悩む方々が学びとシェアリングの時を持っています。

 ―しかし、そういう問題は、専門のカウンセラーにかからなければいけないんじゃないですか。

 <牧師>もちろん、サポート・グループは専門家によるカウンセリングの代わりをするものではありません。しかし、最終的に私たちをいやしてくださるのは、神です。私たちはサポート・グループでの学びやシェアリングによって、自分の問題に気付き、神のいやしに信頼することを学び、つぐないを実行することによって人との関係を修復し、祈りとみことばによって神とのまじわりを深めていくのです。いやしの過程においては、逆戻りもないわけではありませんが、こうしたことが、こころの傷の回復を著しく早め、医師やカウンセラーの治療を助けることは、多くの実例で知られています。

 ―でも、私たちのこころの傷は、キリストによってすでにいやされているはずですから、いつまでも、自分の傷をいじったりするのは、後ろ向きだと思うのですが。

 <牧師>そのように言える人は幸いです。しかし、私たちの中には、想像以上の重荷を背負ってきた人たちがいるのです。私はサンディエゴに来て、そういう人たちのためにサポート・グループが必要だと感じたのです。



サポート・グループの理念―中尾牧師へのインタビュー(15)

 ―サポート・グループはどんな理念で行われているのですか。

 <牧師>わたしたちは「12ステップ」を用いています。これは、もともとはアルコール依存症からの回復のために作られたものですが、アルコール患者ばかりでなくその家族や、他の依存症からの回復のためにも用いられてきたものです。

 ―教会と禁酒団体とは、ちょっと結びつかないように思いますが。

 <牧師>しかし、12ステップの歴史を見ると、それが聖書的なバックグラウンドを持っていることが分かります。12ステップはいわゆる「ポップ・サイコロジー」とは違って、長い歴史を持ち、多くの人々によって認められている回復のステップです。

 ―でも、いやしは神から来るのではありませんか。

 <牧師>その通りです。そして、12ステップ自体がそのことを教えているのです。12ステップは、自分の無力を認め神に頼ること、自分の犯した罪を悔い改め、つぐないをすること、神との交わりを深めて自分を変えていただくことを教えています。クリスチャンでない人たちは自分で想像した「神」を神としますが、私たちは12ステップで言われている神を、文字どおり父、御子、御霊なる神として受け入れています。私たちはグループそのものやプログラムが人をいやし、造り変えるのではなく、神がしてくださるということを堅く信じています。

 ―サポート・グループは特定の人の集まりのように見えますが。

 <牧師>クローズド・ミィーティングということが良く理解されていないようですね。サポート・グループでは自分自身の問題を正直にシェアすることが奨励されますので、自分の問題に取り組み、ミーティングで話し合われたことを絶対に外にもらさない、ミーティングでのシェアリングを批判ではなく、愛をもって聞くことを誓いあった人たちでグループを構成します。しかし、半年か一年ごとに、グループは一旦解散され、新しく作られますので、その時に加わることができます。毎年1月と7月にその報告がありますから、興味がありましたらそのおり、グループ・リーダーに問い合わせてください。


12ステップについては、「中尾牧師のホームページ」リカバリー・ミニストリーの「12ステップの旅」をごらんください。



2000年に向けてのヴィジョン―中尾牧師へのインタビュー(16)

 ―今年も、もうクリスマス、1997年はもうすぐですね。2000年まであと3年というわけですね。

 <牧師>2000年は、私たちの教会の創立70周年です。その年の7月には、私たちが教団総会をホストすることになっています。

 ―いまから準備を始めなければいけませんね。

 <牧師>私たちの教会の弱点のひとつは、前もっての準備が乏しいことだと思います。早くからきちんとしたプランを立て、良く話し合い、祈り合い、多くの人の奉仕と参加を呼びかける、それで始めて内容のある集会ができるのです。いきあたりばったりや例年の繰り返し、ラストミニッツ・ジョブからは何の良いものも生まれてきません。

 ―先生は2000年にどういう夢をお持ちですか。

 <牧師>四百人を収容できるチャペル、同じ数の人たちが入れるフェローシップ・ホール、そして大きなキッチンがあって、他の場所を借りなくても、教会で教団総会を開けたらというのが、私の「夢」です。

 ―それを実現するには、教会がもっと霊的に成長し、伝道に励まなければなりませんね。

 <牧師>そうです。私が言いたいのは、単に大きなビィルディング・プロジェクトを成し遂げるということではなく、教会が一回り大きく、強く、そして深く成長するということです。私たちにはその可能性があります。いつも思うことは、一世、二世の方々が私たちに残してくださったものにあぐらをかくのでなく、今度は私たちが次の世代に良いものを残していくため努力しなければならないということです。

 ―そうですね、私たちは建物が狭いと不満だけは言うけれど、後片づけや掃除でさえきちんと出来ていないし、自分たちで、こういう教会が欲しいということを話し合ったり、祈り合ったりしてきませんでした。

 <牧師>ヴィジョンは神から来るものですが、私たち教会員がみんなでそれをキャッチしてはじめて「教会のヴィジョン」となるのです。そしてそのヴィジョンを達成するためには、一歩一歩のしっかりしたステップが必要です。牧師や教会のリーダーの仕事は、単に「景気のいい」話しをすることではなく、神の求めておられる教会に成長するため、背後で働くことにあるのです。



英語部と日語部―中尾牧師へのインタビュー(17)

 ―先生、インタヴューの最後に英語部と日語部との関係についてひとこと。

 <牧師>私たちの教会、また教団のユニークなところは、英語部、日語部がひとつの教会として機能していることだと思います。ある人はこの関係を夫婦のような関係だと言いますが、歴史的に見ると、日本語の働きの中から英語の働きが産み出されてきたわけですから、それは霊的には親子関係のようなものかもしれません。

 ―日語部が母親だとして、気をつけなければならないことは何ですか。

 <牧師>私たちは日本で生まれ、日本の文化背景を持っていますが、英語部の方々はそうでありません。彼らに私たちの枠組みを押し付けないようにしなければなりません。しかし、それと同時に、英語部がみことばに立つ教会として成長するために、日語部は霊的な面でサポートを与えることができるでしょうね。そのような面では「母親」としての自覚が必要だと思います。

 ―ことばの違いというのは、いろいろと問題の種になりませんか。

 <牧師>使徒行伝六章で、ギリシャ語を話すユダヤ人との間にトラブルがあったとあります。私はアメリカに来て始めて、こういうことに実際に直面しました。

 ―それで、その解決は?

 <牧師>最初は、私がもっと英語が話せたらと思うことがありました。しかし、今は、もっと大切なことは霊的なことだと思うようになりました。初代エルサレム教会の問題を解決したのは、なにかの方策ではなく「信仰と聖霊とに満ちた人々」だったのです。

 ―先生は、牧師祈り会、日英合同礼拝、合同祈り会、日英両語でのあかし集、祈りの課題の交換など提案され、このごろは合同行事では日語部の参加も多くなり、経済的にも、礼拝、月定献金は英語部と対等になってきたそうですね。今後はどういうことをお考えですか。

 <牧師>「共に集まる」ということから、伝道のためみことばの訓練のため「共に働く」というところに進んでゆけたらと願っています。例えば、「英語教室」「日本語教室」をとおしての伝道については、執事会の議案になっていますが、具体的には前進していません。このために働いてくださる方が起こされて、新年度には実現にいたるようにと願っています。