死の恐れから救われて─救いのあかし─

 私の父は、私がまだ赤ん坊だったときに交通事故に遭い、長い間入院していました。母も父の看病で家を空けていましたので、一番上の姉が自宅で美容院を開き、私たちの世話をしてくれました。

 父は退院して、商売をはじめました。交通事故で片足を無くしましたので、店に寝泊まりして、家に帰ることはまれでした。

 父の退院と前後して母が入院しました。あとで知ったことですが、子宮ガンでした。そんなわけで、母親の顔をまじまじと見たのは、私が小学二年生のときでした。担任の先生に「お母さんが退院して家に帰って来たから、学校はもういいから帰りなさい」と言われて、私は駆け足で、近道をして家に帰りました。母は家の掃除をしていました。

 しばらくは母のいる生活でしたが、またすぐに母は入院しました。父は店の隣に家を建て、母も退院して来て、家族がそろいました。けれどもそれはほんのつかの間のことでした。まだ畳の香りが強く残っている新しい部屋が、彼女の病室となりました。一週間の間医者が毎日往診に来ました。そして、母は帰らぬ人となりました。私が十歳のときでした。

 このことは、私の心と身体に大きな影響を与えました。私は学校でも、何か素直になれない子供になっていました。私の嫌いな歌は「雨々ふれふれ」と「山田の中の」でした。雨が降っても、私には迎えに来てくれる母親がいなかったのです。それに「山田の中の一本足のかかし」という歌は不具の父が馬鹿にされているように思えて嫌でした。

 私は母の死後肋膜炎にかかり、入院こそしませんでしたが、学校を一年間休んでしまいました。学校に戻るようになっても、体育の時間は見学で、週に一度は早引きをして病院に通わなければなりませんでした。そんな状態が中学二年生ごろまで続いたように覚えています。

 私たちを世話してくれた一番上の姉は結婚しても子供がなかったため、末っ子の私を自分の子供のようにかわいがってくれました。義兄もそうでした。ところが、義兄がトラックの荷台から降り落とされてなくなってしまいました。

 私は肉親の死、そして自分の病気をとうして、死を恐れるようになっていました。高校生になっても時々高い熱を出して一週間も寝込んでしまうことがありました。そんな時、自分はこのまま死んでしまったらどうなるんだろう、長く生きたとしても、やがては年をとって死んでいくのなら、生きていくことにはどんな意味があるのだろうと考えたりもしました。

 聖書に興味を持ったのは、そのころでした。近くの書店で聖書を買い求めました。高校生の雑誌に「聖書通信講座」の案内が出ていたのを思い出し、バックナンバーを押し入れから引っ張り出して探しあてました。こうして、その時から、今にいたるまでの、私の聖書の勉強が始まりました。

 ラジオでキリスト教番組も聞きました。その中で「技術の発達によって、今は、遠く離れた国の人と電話で話すことができるようになった。なのに、私たちは、身近にいる人と心を通わすことができない。」と言っているのを聞きました。それは、私にとっても同じでした。嫌な人とは口もききたくないと思い、心の中に憎しみをもっていたのです。私は聖書を学び自分の罪が分かってきました。そして、イエス・キリストが私を罪から救うために、十字架で死に、三日目によみがえってくださったことを、通信講座を通して理解するようになりました。

 教会に行ってみたいと思い、中学校への通学路に教会があったのを思い出し、近くまで行って見ました。しかし、その教会の門はしっかりと閉ざされており、「牧師面談日、毎週木曜日」と書いてありました。その日は金曜日だったのです。それであきらめて帰ろうとしたら、その近くのブロック塀に「賛美とメッセージの集い―キリスト教伝道集会」というポスターが貼ってありました。別の教会のもので、その夜、伝道集会があるというのです。おそるおそる教会に入りました。聖歌隊の賛美のあと、メッセージが語られました。講師は、今は故人となられました、古山洋右先生でした。「あなたの罪は、鉄の筆、金剛石のとがりをもってしるされ、彼らの心の碑と、祭壇の角に彫りつけられている。」(エレミヤ17:1)との厳しいメッセージでした。メッセージの最後に「イエス・キリストを自分の救い主として受け入れる人は手をあげなさい。」との招きがありました。私はためらわず、手をあげることができました。集会が終わってひとりのクリスチャンが、私を個人的に導いてくださいました。私は生まれてはじめて、まことの神様に祈り、イエス・キリストのお名前で祈りました。後で知ったことですが、このクリスチャンは、教会の執事で、私の見たポスターは、彼が家の近くに貼ったものだったのです。

 教会から家への帰り道、私は自転車のペダルをこぎながら、その夜聖歌隊によって歌われていた賛美「わが生涯はあらたまりぬ、イエスを信ぜしより、わが旅路のみひかりなる、イエスを信ぜしより。イエスを信ぜしより、イエスを信ぜしより、よろこびにて胸はあふる、イエスを信ぜしより」(聖歌四六二)を口ずさんでいました。この賛美の四節目の歌詞は「死の恐れはまたく消えぬ、イエスを信ぜしより、あまつ住まい備えたもう、イエスを信ぜしより」です。この歌詞のように、私は、イエス様を信じたことによって、死の恐れから解放されました。聖書に、「このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。」(ヘブル人への手紙二・一四、一五)と書いてある通りです。

 イエス・キリストは、私の心の空白を満たしてあまりあるお方でした。このお方によって私は肉親の愛にまさる神の愛を知りました。それは私が十六歳の時でした。翌年のイースターにバプテスマを受け、母教会で信仰を育てていただきました。それ以来、ただ、神様のあわれみにより、今にいたるまで、牧師として働いてこれたことを、こころから感謝しています。

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