USA Diary

February, 2015

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2月16日(月)きょうは今までとうってかわった寒い日になりました。しかし、雨が上がったので、路面の凍結などなく、安心してドライブできました。
2月15日(日)きょうは曇りでしたが、午後のリトリートが終わるまでは雨も降らず、なんとか守られてリトリートを終えることができました。
2月14日(土)きょうはヴァレンタイン・デー。グロッサリーストアには以前からチョコレートのコーナーがありましたので、きょう、特別混みあうということでもなさそうです。駐車場などでテントを張ってバラや人形などを売っているところもあります。
2月13日(金)幼児クラスのある金曜日はいつも暖かい日になります。こどもたちも庭で遊べてうれしそうでした。日本に里帰りしていた人が「アメリカでは何がはやっているの」と聞かれて困ったという話が、きのうありました。アメリカでは、何かが「流行る」ということがあまりありません。とくに南部では時間がゆっくり流れているような気がします。
2月12日(木)ヴァイツゼッカー大統領の演説に「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」とあります。日本の政権の「歴史認識」が他国から問われているのは、日本がドイツが持っているような歴史認識に欠けているからかもしれません。
2月11日(水)1984-1994年の間ドイツの大統領だったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏が1月13日、94歳で亡くなりました。きょう、ベルリン大聖堂で国葬が行われました。ヴァイツゼッカー大統領の戦後40年目の演説は、今も、いや、今こそ耳を傾けるべきものと思います。
2月10日(火)カリフォルニアや日本から日本の食べ物を送っていただきました。日本各地の名産品や新しい製品などをとてもうれしく思いました。
2月9日(月)カリフォルニアでは、新しく車を買ったとき、ライセンスプレートは郵送されてきたのですが、こちらではディーラーにまで取りに行かなければなりませんでした。ディラーは遠いところで、おまけにそこに行く道は工事中で混んでおり、ライセンスプレートを取りに行くだけでずいぶん時間がかかってしまいました。近くで買おうとしたのですが、それができなかったので、いろいろと手間がかかってしまいました。
2月8日(日)家内の具合があまりよくないので、きょうは昼食後すぐに帰宅しました。家内は帰宅後ぐっすり眠り、少しよくなったようです。
2月7日(土)来客があって、帰りを車で送っていきました。土曜日なので道は空いているだろうと思ったら、逆に工事中のための渋滞に巻き込まれてしまいました。娘とふたりでお客さんを送っていったので、帰りはエキスプレス・レーンを使って早く帰ることができました。
2月6日(金)また気温があがり、幼児クラスのあと、子どもたちは外遊びを楽しんでいました。夕方、訪問先の近くの教会を訪ね、教会の庭にある納骨施設を見学してきました。とてもきれいで、心休まる時を持てましたが、日が落ちた後でしたので、ちょっと寒さを感じました。
2月5日(木)じわじわと気温が下がりとても寒い日になりました。といっても今まで暖かすぎたので、これくらいが普通の気温なのかもしれません。
2月4日(水)たとえ、私たちが聖書から「豊かな人生」について語っても、その「豊かさ」が、健康に恵まれ、お金に困ることなく、家族にトラブルがなく、教会の活動によって満足を得ることに置き換えられて終わるとしたら、いったいキリストが与える「永遠の命」とは何だろうということになります。「世俗化」を避けつつ、「日常化」を目指す。そんな道を模索しています。
2月3日(火)私が宗教についていつも考えていることは、「世俗化」と「日常化」の違いです。信仰は日常生活に生かされてはじめて価値があると考える人は、人里離れて修行したり、現代の風習と違ったことをすることに価値を認めないことがあり、そうしたことを嫌う傾向があります。しかし、信仰から日常を超えた部分を取り除くなら、結局のところ、信仰がこの世の生活をどれほど「安楽」にできるかということに集中し、信仰が「世俗」のもので終わってしまうのではないかと心配するのです。
2月2日(月)フランスでイスラムを揶揄するような漫画が描かれて以来、さまざまな騒動が起こりました。これには、宗教上「聖なるもの」とされたものを大事にしなくなったことに原因があるように思います。キリスト教社会が、フランスをはじめとして世俗化し、「聖なるもの」を持たなくなったためで、それと同じ感覚でイスラムの人々の「聖なるもの」を揶揄したことは、とんでもないことです。「聖なるもの」に関心を持たなくなっているキリスト教徒の悔い改めが求められていると思います。
2月1日(日)日本のジャーナリストが殺害されるなど、世界は物騒ですが、ここでは、平和のうちに礼拝を守ることができています。この平和を当たり前のように思うことなく、平和の神に頼ることを教えられたいと思います。
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