信仰者の歩みに思うこと

 「まわりの人はみんな素晴らしい信仰者なのに、私はすぐ神を疑ったりしてしまう罪深い者なんです。私なんかクリスチャンにふさわしくないと思います。」というような悩みを、時々聞くことがある。そんな時、私は「あなただけでなく、真面目なクリスチャンはみんなそういう所を通るんだと思います。」と、少し自分の体験を証しする。

 人の目にはどうあれ、私たちの信仰の歩みも人生の歩みと同様、山あり谷ありで、そんなにいつも「ハレルヤ、感謝」だけではないと思う。未知、未経験の大きな困難に直面するような時、人間関係の諸問題に悩まされたり、躓きを覚えたりする時、すべての骨折りが無駄だったと感じるような時、失敗を通して自分の弱さ愚かさを思い知らされる時、私たちは冷静な状況判断ができなくなったり、内面の整理がうまくいかなかったりする。

 そんな時は、すぐ主に祈り、みことばを信じ、委ねることが肝心だと、十分わかっているのに、その通りにできない事がある。「わかっている事と、わかっているように生きる事とは違うんだ。」と、私の父はよく家族を叱ったが、信仰者の場合も、わかっているように生きることのできない時もあるのではないかと思う。「なぜ?どうして?」と心に湧いてくる疑問に捕らわれて、納得のいく答を見つける方が先決になってしまい、信仰の足が地に着かないような状態に陥ってしまう事が時々ある。これは信仰者として良くない事だと、あせりつつも…。

 聖書にも、特に詩篇には、信仰者の疑惑や葛藤、悲痛や苦悩、不安や恐れ、怒りや口惜しさ、やり切れなさ等が包み隠さず書かれている。神を信じる者が、神を信じるゆえに神にぶつける心の叫びがリアルに描かれている。そしてそんな中に、主への賛美、感謝が歌われている。神を信じる喜びと希望と活力が随所に光っているのを見る。昔の聖徒たちも、暗闇の道を経て光を見出し、勝利の道へと進んでいったのだと教えられる。光の高地へ行くために、涙の谷を通過しなければならなかったのだと…。

 今、私たちがどんな状態であっても、主のもとを離れないでいれば、必ず信仰の大路に出られるようになる。その大路を確かな足取りで歩く者へと成長させられる。そう信じて、主を待ち望む者でありたいと思う。


ルツ記から学んだこと

 ルツ記は、信仰と愛の美しい記録です。嫁と姑の美しい愛の記録です。神の民と異邦の民が、神を尊んで愛し合い、助け合った美しい人間愛の記録です。そこに神さまの愛と、すばらしいご計画が見える事実物語です。

 しかし、この美しい物語の舞台背景は、大きな苦難と人間の深い悲しみであることがわかります。昔も今も、本当に美しい愛の物語は、悲しみや苦しみの中で生まれるのではないかと思いました。ルツ記1章1節~18節を見ますと、ナオミの家族が、母国がひどい飢饉になったので、生き延びるために異国の地モアブに行ったことがわかります。人は時に、生きてゆくために自分が望んでいない、やむを得ない選択をしなくてはならないことが、あるのかも知れません。昔、日本人も国内では生きていくのが難しい状況だったので、アメリカや南米など、海外に出て行って苦労したと聞きます。

 ナオミの一家は、モアブの地でずいぶん苦労した事が読み取れますが、「モアブの野」とありますから、開拓ではなかったかと思われます。開拓の野良仕事は、男性により多くの負担がかかるわけですが、ナオミの夫は家長として苛酷な労働に耐えに耐えていたのではないかと思われます。「ナオミの夫は死んだ」とありますが、今でいうと「過労死」であったか、毒虫か毒草にやられたのかも知れません。それから二人の息子も早死していますが、同じような原因が考えられると思います。中年の男性ならいざ知らず、活力溢れる若者が相継いで死ぬ、という環境はどれほど苛酷だったことでしょうか。ナオミも当然、野での仕事も手伝いながら、主婦として、男性に劣らず苦労したであろうと思われます。後で、自分の事をマラ(苦しみ)と呼んでいますから。ナオミは、夫と二人の息子に先立たれて、苦しみや悲しみを打ち明けられる友人もなく、助けてくれる親戚もない、心細さと孤独の辛さにもじっと耐えていたと思います。

 夫や息子たちとの死別の悲しみに加え、男手がなくなったための生活の困難は、想像を絶するものだったのではないかと思われます。しかし、それでもナオミは信仰と愛を失いませんでした。人は、あまりに辛いことがあると、不平不満ばかりを口にするようになってしまったり、周囲に辺り散らしたり、心がかたくなになって、人を愛せなくなったりするのですが、ナオミは信仰があったから、苦難や悲しみの中でも、愛を失わずにいられたのだと思います。人間の力だけでは、酷い悲しみや苦しみに押し潰されてしまう事でしょう。

 神さまは本当に恵み深いおかたです。このナオミに、またとないようなすばらしい二人の嫁、オルパとルツを与えてくださっています。ナオミと嫁たちは深く愛し合っていました。嫁と姑の、こんなに美しい愛の関係は、他に類を見ないのではないかと思います。イスラエルの飢饉が終わったと聞いてナオミは、望郷への思いが募ったのでしょうか。故郷へ帰ろうと決心して旅立ちます。オルパとルツは、なんの躊躇もなく、ナオミについて行きます。この二人は、ナオミの生き方の中に、苦難の中にいっそう輝く、イスラエルの神への信仰の力と、その生き方の価値と幸いを見たのではないかと思います。

 オルパとルツは、ナオミと一緒に行こうとしましたが、ナオミのほうが二人の行く末を案じて、自分の国へ帰るようにと二人に勧めました。ナオミは二人を愛していたので、離れたくはなかったと思いますが、しかし、ナオミは、まだ若い二人の女性を異国に連れていって、幸福にしてあげられるだろうか。はたしてイスラエルの地で、モアブの未亡人の女性を娶ってくれる、良い男性に巡りあわせてあげられるだろうかと考えて、ナオミは二人に自分の国に帰って、幸せな再婚をするようにと強く勧めました。(このナオミから、愛とは人の幸せを願う事だと教えられます。)ナオミは、二人を実の娘のように愛していましたが、しかし、どんなに愛していても、それだけでは、人を幸福にしてあげることが出来ない、という厳しい現実があります。愛する者に、その人が幸福になるために必要なものをあげる力が、自分にないという場合があるのです。人はその厳しい現実の中でもだえ苦しみ、涙するのかも知れません。

 オルパは、ナオミの言葉に促されて泣く泣く帰って行きました。この時のオルパの行動は当然と思いますし、責められませんが、しかし、ルツの決意は特別でした。ルツは、ナオミの言葉に逆らってでも自分の決意を貫こうとします。おそらく、ルツが姑の言葉に逆らったのはこの時が、初めてではなかったかと思われますが。人は時に、もっともな人の言葉に逆らってでも、自分の信じる道を選びとる事が大切な場合がある、ということを教えられます。

 ルツが帰らなかった理由はふたつあると思います。一つは、老齢の姑を、一人で旅をさせるわけにはいかないと考えたこと、ナオミ一人だと、ナオミは途中で倒れてしまうかも知らない。とルツは案じられてならなかったと思います。もうひとつは、ナオミが信じているイスラエルの神への強い信仰です。ルツは、ナオミの神は、私の神、私の主です。と確かな信仰告白をしています。このような信仰を持つ者が、どんな状況の中でも、自分の事はさておいて、他への愛を貫き通せるのだと思います。

 それにしても、異邦人の嫁をして、ここまで言わせたナオミの生きた信仰と愛の証は、大きな苦難の中で、どれだけ光っていたことでしょうか。深く教えられます。このようなナオミを、神は苦難の中でも見捨てず、助けと慰めを与えてくださっています。

 故郷ベツレヘムにたどり着いたナオミは、そこの人々に、自分が苦しみに合ってきたことを話しました。ひどい苦しみに合ったと告げています。やはり異境の地で、気を張って生きていたのでしょうか。故郷に帰って本音をぶちまけています。(1・2021)このナオミの態度から、私たちも、未信者の間では気を引き締めて歩む必要があっても、信仰の友人、知人には自分の辛さを、弱音も含めて、ありのまま話してもいいのだと教えられ、慰めを得ます。

 二章から、ベツレヘムに着いたナオミとルツは、生活の糧を考えなくてはならなくなりました。ナオミの夫エリメレクはかなりの資産家だったようですが、モアブの地で全てを失ったとナオミが言っています。若いルツは、何とか自分が働いて生活を立てたいと願いました。ルツは、落ち穂を拾う仕事をしたいから、畑に行かせてくださいとナオミに頼みました。当時の社会で、身寄りのない若い女性の働き口は落ち穂拾いぐらいだったようです。ナオミ以外は知る人もいない異境の地で、ルツは心細かったかも知れませんが、しかし、ルツが『私の神』と信じた真の神は、ルツを見捨てませんでした。ルツを幸いな出会いの場所へと導かれました。

 ルツが行って落ち穂を拾い始めたのは、はからずも、ナオミの近い親戚で、後にルツの夫となるボアズの畑でした。これは決して偶然ではなく、神の愛の摂理だったのです。ナオミが自慢の嫁の事を、事細かにまわりの人々に話したのだと思いますが、ルツの良い評判は、ボアズの畑で働く人々にも聞こえていたのでした。その畑でルツは、ボアズをはじめみんなからよくしてもらいました。この時代にも、(イスラエルにも)いじめはあったようですが(2・22)、ボアズの畑ではそれがありませんでした。雇用主も、使用人もお互いを大切にしあっていたからだと思います。(余談になりますが、いじめは、どの時代、どこの国の、どんな場所にでもあるもののようですけど、人が人をいじめるのは、相手を粗末に考えるからだと思います。いじめは、相手ばかりでなく、実はいじめをする本人も自分を粗末にしているのです。いじめをする人間は、非常に人格の卑しい、人としての価値の低い者なのですが、どうして人は、自分自身をそんなものにしてしまうのでしょう。現代の、特に日本のあちこちに見られる、子供を自殺に追いやるほどのひどいいじめは、人間の尊厳を忘れてしまった社会のありかたのせいでしょうか。卑しく悲しい、不幸な社会になってしまいました。そんな国を、たとえ物質的に繁栄していても、誰が尊べるでしょう。)

 ボアズは、裕福な人だったようですが、それ以上に、人格的にも、信仰的にも優れた人であったことがわかります。ボアズは公義を重んじる、誠実で謙虚で勤勉な心の温かい紳士でした。ルツが、どのような経路でこのボアズとの幸いな結婚へと導かれたか、そして、イエスさまの系図に数えられたのかは、三章、四章に具体的に書いてありますが、ルツは、その翼の下に避け所を求めてきたイスラエルの神、主から大きな恵みをいただきました。自分の身のことなど顧みず、神への真摯な信仰と、他への愛に生きようとしたルツを、主は豊かに豊かに祝福されたのでした。ルツが信じたこの神さまは、今も信じて従う者を決して見捨てず、恵みをもって顧みてくださいます。

 ルツの幸いな結婚と出産は、姑のナオミにも大きな喜びとなりました。ナオミの苦しみは、主の恵みによって十分報われたのです。ナオミは、実生活では苦難や悲哀を多く味わった人ですが、しかし、人間関係では恵まれた人でした。亡くなった夫も息子たちも、心優しい真面目な人柄だったと思われますし、特別に良い嫁たちにも恵まれました。もしかしたら、人間の心の優しさや、美しさに触れることが少なくて、その逆のものばかりを見せつけられる人生のほうが、人にとって実生活の困難よりも、もっと辛く苦しいのかも知れない。と私は自分が今、体験していることとも重ねながら、ナオミの事を通して、人間の幸、不幸の側面に想いを馳せています。

 ルツ記は、聖書の他の書には見られない、人間の欲望や、罪の醜さが記されていない書巻です。人間が皆、このルツ記に登場する人々のようだったら、ああ、どんなにいいだろうか。と思ったのは私だけでしょうか。笑顔で挨拶される時にも、その人の、その笑顔にはマッチしないと思える冷酷な、醜い問題言動があることを見聞きしてしまうと、「ああ、そのいい笑顔が、その人の心のままであるのだったら…」と、思って涙が滲んでくることがあります。それは、人間の罪なんだとわかっていますが。ともあれ、私はルツ記を読んで、ほのぼのと心温かくなり、神さまの愛と、ご真実を改めて深く教えられ、感謝しました。


詩篇23篇を読んで

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。 あなたが私とともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。
まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。
私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
(詩篇23篇)

 聖書は、人間を羊にたとえています。羊には、牙も爪もありませんし、スカンクのように、敵を追い払うものも、すばやく逃げる早い足もありませんので、自分では身を守ることができないのです。羊は、弱く、また、迷いやすく、その上わがままな所があるといいます。そういった面が人間に似ているということです。ほうっておいたらどこへ行くかわからないし、自分で歩いた道を戻ることもできないそうです。(私が最初に聞いた聖書の話も、人間は羊のように弱く、羊のように愚かで、羊のように迷いやすい、というメッセージでした。)

 このような羊にとって、どうしても必要なのは、羊飼いです。羊を守り、羊を導き、羊を養い育てる良い羊飼いです。羊のように弱く、愚かで迷いやすい人間にも、良い羊飼いが必要なのです。

 この詩篇の1節に、「主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません」とありますが、主であるイエスさまが、私の羊飼いになってくださったら、私たちは、餓えや、渇きで死にそうになったりするようなことは、ないということです。これは、イエスさまを信じて生きる人は、充実した人生を歩めるということですが、それは、必ずしもあらゆる面で恵まれた、何の問題もない生き方ができるということではありません。むしろ、現実には欠けや問題があっても、心に豊かさを覚えながら生きられるということです。詩篇の作者は、「乏しいことがありません」と言い切っています。信仰による希望の告白、前向きな生き方の宣言ですが、私たちは、目に見えることによって、「私はこんなんだ」と、消極的な事を自分に言い聞かせるのではなく、神を信じての希望の告白をしていくことが大切です。目に見える暗い現実に同意する言葉を口にするのではなく、「主が共にいてくださるから、私は大丈夫だ」と、口に出していうことは、とても大事なことです。暗い現実を、いくら「暗い、暗い」と口にしても、物事は決して好転しませんし、ますます自分の心が暗くなります。ですから、暗い時、辛い時は、光を求めて神に祈ることです。主は必ず、信じて祈るものを、顧みてくださいます。

 「信じるごとくになる」「自分が口にしたとうりの事が起こる」ということが 実際にあります。私はその実例を、自分のことでも、他の人の事でも何度も見てきました。信仰の力、信仰告白の実力は、私たちが考えているより、ずっと大きなものだと思います。また、恵み深い全能の神は、私たちに必要なものは、必ず与えてくださいますから、本当に「乏しいことがない」と言えるのです。

 2節には、「主は私を緑の牧場に伏させる」とあります。緑色の、でなく、緑の牧場というのは、命を養う、命の糧が豊かにあるところを指しています。良い羊飼いによってそこに導かれる羊は、命の恵みが豊かに満ちている所に、「伏す」のです。たとい、危険がまわりにあったとしても、羊飼いに守られている羊は、安心してそこに安らう事ができるのです。イエスさまに付いて行く私たちも、危険がいっぱいの世にあっても、ビクビクしないで、平安に生きてゆくことができるのです。あらゆるものが満たされていても、平安や、安息がないと人間は幸福ではないのですが、この世には、人に本当の平安を与えるものはありません。誰もがよく知っているように、この世の安心は、無数の不安材料に囲まれた、つかのまの安心でしかないのです。主のもとにこそ、確かな平安があります。

 「水のほとりに伴われる」水がないところには、命は育ちませんが、私たちは、命の水を与えてくださる神さまを知らないと、日照りの中で、パラパラっと水をまいてやっと何とか生きのびている植物のような、何の潤いもない人生を歩んでしまいます。物質的には十分満たされている現代人の多くが、渇きの癒されない日々を送っているのが実状ではないでしょうか。なんと多くの人が、心になんの潤いもない日々に疲れきっていることでしょうか。ですから、「癒し系」などという言葉が流行って、あちこちで使われるのだと思います。そのような癒しは、疲れている人々に、なんらかの慰めは与えると思いますが、しかし、やはりそれは一時的な、部分的、表面的癒しでしかないと思います。力ある愛の主イエスさまこそ、私たちを心底から癒す、全人的癒しを与えてくださる方です。この主のもとで、私たちは平安で、潤いのある人生を送れるのだと、みことばは教えています。「人は、神を知るまでは、本当の満足は得られない」と昔の聖徒は言いましたが、ほんとうだと思います。

 「主は、私のたましいを生き返らせ」(3節)私たちは時々、精神的にも、肉体的にも「ああ、もうだめだ。」と思えるような状態になることがあります。さまざまな理由で疲れ果てて、落ち込んで、生きる希望も気力も失ってしまいます。自分ではもう、とうてい立ち上がることができないと思えるのです。そんな時、まわりの人々の思いやりの言葉や、励ましが。ことの他身に染みてうれしいのですが、しかし、やはり人間が人間を慰め、励ます力は本当にわずかです。どんなに真心こめてそれをなしても、やっぱりあまりにも不十分だと自覚させられます。沈みこんでいる人を何とか助けたいと、努力してみても、徒労に終わるようなことや、かえって逆の結果を招いてしまうようなこともあります。それは、与える時も、受ける時もそうかもしれませんが…。

 しかし、神さまは、確実に弱っている者を力づけ、沈み込んでいる魂を立ち上がらせる事ができる方です。神は私たちを生き返らせてくださいます。主に頼れば、私たちがどんな状態になっていても、回復が可能なのです。本気で神に頼る者は、何度でも、どこからでもやり直すことができるのです。だから、神を信じて生きる人の人生からは、希望の灯が消えることはありません。

 羊は、群をなしているのに、この詩篇では、「私たちの…」といわないで、「私の…」と言っています。これは、神が、私たちを十把一絡げ的にでなく、一人一人、この私を心に留めて顧みてくださっている、ということを示しているのではないかと思います。人それぞれの、必要も状況もみんな違うのですが、神さまは,私たち一人一人を適切に導いてくださるのです。

 「たましいを生きかえらせ」と言う言葉には、「私たちの息づかいを“catch”してくださる」というような意味も含まれていると、別の訳で読んだことがあります。子供が病気の時に、子供を案じて、子供の息づかいをじっと見ている母親のような、非常に細やかな心遣いをもって、神は、弱った私たちを見ていてくださって、助けてくださり、力づけてくださり、立ち上がらせてくださるのです。そして正しい道にみちびいてくださる、とあります。「さあ、助けてやったから、勝手に自分で歩け」というのではなく、私たちが歩くべき正しい道に、ていねいに、手を取るようにして導いてくださるのです。

 「み名のために」とありますが、主は、神の真実にかけて、寄り頼む者を確実に導いてくださるというのです。神こそが、私たちの人生の確かな導き手です。

 「たとい、死の蔭の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」(4節)精神的に、肉体的に、文字通り死の蔭の谷を歩くような、大変な経験をなさった方も、あるいは、現在その状況に直面しておられる方もいると思いますが、人生は、いつ、なんどき、どんなことが起こるか判らないものです。私たちの心身に、予想もしなかったような嵐が、突然襲ってきたりします。また、情報過多の時代に生きる私たちは、あちらからも、こちらからも、私たちの心を不安にし、恐れさせるものを浴びせられているように感じます。世界は確かにマイナスの方向に突き進んでいるからかも知れませんが。世界の情勢は刻、一刻と変動しています。そんな中で、どうして私たちは、恐れないでいられましょう。

 しかし、世の中がどのようになっても、私たちの身にどんなことが起こっても、主が共にいてくだされば、私たちは大丈夫なのです。主はどんな時にも、私たちを支えてくださいます。「下には永遠の腕がある」と、聖書にあるように、私たちはいつでも、神の力あるみ手の中に支えていただけるのです。“Fear not.”(恐れるな)と、主は、何度も何度も弱い私たちに、声をかけてくださっています。

 「あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです」草原に伏す、あるいは野道をとことこ歩く羊を狙っているものが、あちこちにいます。羊は武器になるものを持ちませんし、足も早くないですから、羊飼いがいないと、たちまちやられてしまいます。でも、勇敢な羊飼いがいれば大丈夫です。羊飼いは、そのむちで羊を狙う、羊の敵を追い払い、あるいはやっつけます。杖は、羊に合図したり、群から逸れそうになった羊を、こっち、こっちと、やさしく諭したり、あるいは、弱ったり、怪我などして歩けなかったりするものを、肩に担ぐためなどにも使われたことでしょうか。力のむち、愛の杖ではなかったかと思います。私たちを害するもの、傷つけるものをやっつけてくださる、主のむち、私たちの面倒を見てくださる主の杖が、難儀なことの多い私たちの人生の掛け替えのない慰めなのです。

 「私の敵の前で、あなたは私のために食事を整え、私の頭に油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」(5節)人生には敵がいるのですね。敵など作りたくないのに、生涯みんなと仲良く、平和に過ごしたいと切望しているのに、いつの間にか、人の敵にされてしまっているような悲しいことも、時にあるかも知れません。私たちを、傷つけ、斥け、私たちから大事なものを奪うような敵がいます。サタンのような目に見えない敵もあれば、ある時は私たちの身の回りにもいたりします。油断すると気がつかない間にやられてしまったりしますが、神さまは、私たちを敵にやられっぱなしにはしない、むしろ、敵が悔しがるほどに、私たちの人生を祝福してくださると、言っています。しかも、その祝福は、満ちあふれて、まわりにこぼれるような、そんなにも大きな、すばらしいものだというのです。そのように、大変な中にも豊かさを味わうことのできる人生は、神を信じて生きる者に約束されています。

 6節は、主の恵みといつくしみが、私の生きる日の限り注がれると歌っていますが、主の恵みといつくしみが、どんなに自分を生かし、力づけ、満たしてくれる素晴らしいものかは、信じて経験している人が、よく知っているのですが、それが、私を追いかけてくるというのです。悪いものや、変なものに追われるのは困りますが、主の恵みといつくしみに追いかけられ、それに捕まえられて生きる人生は、なんと幸いでしょう。そんな恵みと、いつくしみに守られて、弱い私たちも世の嵐に押し潰されることなく、感謝しながら生きてゆけるのです。

 「私は、いつまでも主の宮に住まいましょう」主の愛は、いつも、いつまでもなくならない、永遠に継続する愛です。私の信仰、主への愛も、足りないながらもずっと続けたいと願っています。ハレルヤ。


主のいつくしみについて

あなたのいつくしみは、なんと大きいことでしょう。あなたはそれを、あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに身を避ける者のために人の子の前で、それを備えられました。(詩篇3119

 主のいつくしみとは、主の恵み、あわれみ、主の愛、とも訳されていますが、今日は、この主のいつくしみについて、いろんな面から考えてみたいと思いました。

「慰め」と「励まし」

 主のいつくしみには、慰め、励ましがあります。嵐の多い世に生きる私たちは、絶えず慰めや励ましを必要としています。私たちが辛い時、心身共に疲れ果てて落ち込むような時、神さまは、いろんな方法で弱い私たちを慰め、励ましてくださいます。コリント第二1・3~5には、「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。神は、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださいます。こうして私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまた、キリストによってあふれているからです。」とあります。私たちはこのような神の慰めを、直接に、間接に、幾度となくいただいてきているのではないでしょうか。そうして生きて来れたのではないでしょうか。また、慰めに満ちた神さまは、美しい花、可愛い小鳥や様々な動物、高く澄んだ青空ややさしく瞬く星、山や川や海等など、いくつもの人の心を慰め励まし、温めるものを私たちに与えてくださっています。自然は実に、神さまの慰めやいたわりで満ちています。

「理解」と「同情」

 この辛さや、こんな気持ちなんか誰にも解かってもらえない…と深い孤独を感じるような時が、たいていの人にはあるのではないかと思います。そして、一人ではその辛さに耐え切れなくなって、誰か、一人の人にでも理解してもらえるなら、と願って、側にいる人に胸の内をもらしてしまうことがあります。でも、「解かってもらえなかった…話さなければよかった。」と逆に後悔したり、失望したりするような事があります。人が、人を理解するのは非常に難しいのかもしれません。それは、人の限界かもしれませんが、しかし、もし相手のことを思いやる愛があれば、たとえ全部は理解できなくても、相手の気持ちを受け止めようとする温かい態度は示してあげることができるのではないでしょうか。そうして心から同情してあげることができるのでは…。真の同情というのは、他の人の痛みを、自分の痛みのように感じる心、泣く者と共に泣く、傷む者への、深いいたわりの気持ちではないかと思いますが、へブル4・15には、「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みにあわれたのです。」とあります。神の御子のイエスさまは、人となってこの世においでになられた時、多くの苦しみ、悲しみを、実際になめられた方ですから、弱い私たちに深く同情してくださると、聖書は言っています。辛い中にあって、人からの理解や同情が得られない時でも、主イエスさまがすべてを理解し、ご慈愛の目を注いでくださっていることを思って、安らぎと力が与えられます。

「声をかけてくださる」

 人から声をかけられてうれしかった、といった経験が、誰にでもあると思いますが、特に、身体や心が弱っているような時や、心配事や痛みをかかえて密かに心が疼いているような時は、人から優しい声をかけられると本当にうれしいものだと思います。会った時に、また電話や手紙、その他、いろんな方法で、心があればそれが出来ますが、でも、自分に余裕がなかったりすると、それもなかなかできないこともありますし、人間のすることは、なにごとにおいてもやはり不十分です。しかし、神さまはちがいます。すべてをご存じの神さまは、絶えず私たちを心に留めてくださっています。「恐れるな」「勇気を出しなさい」「泣かないでいなさい」「心配しないように」「私はあなたを愛している」「信じなさい」「私はあなたの神だから」「失望しないで」「安心しなさい」等など。神さまは、聖書を通して、聖霊のささやきを通して、また、人を用いて、私たちに愛の力強いみ声をかけてくださっています。

「助け」

 私たちはみな、誰かの助けを必要としている者だと思います。心の面でも、身体の面でも、生活のあらゆる面で、人は、互いに助けあわなくては生きられない者なのですが、愛の心をもって助けあわなくてはならないのですが、時々、助けあうどころか、斥けあったり、傷つけあったりしているのを見ます。親しい間柄でもそれをしてしまっている残念な現実があります。また、人に助けを求めても得られない時もあります。たとえ私たちに「人を助けてあげたい」と思う愛の心があっても、その力がない時もありますし、聖書が言っているように、人の助けは空しいのかもしれません。しかし、神さまはいつも力強い助け主です。神さまの聖手は、私たちを助けるのに短すぎることは、決してありません。それに神さまはいつも、信じて依りすがる者を助けようと、待ち構えていてくださいます。この神さまに幾度も幾度も助けていただいて、今まで生きてくることができた事を私は感謝しています。

「守り」

 「危険をも罠をも避け得たるは、恵みのみ業という他なし」という賛美がありますが、本当にそうだと思います。人間は、危険を十分に察知できないですし、時には危険と解かっていても避けられないこともあります。ですから人は、神さまの守りを信じなければ、いつ、何が起こるか、先にどんな危険があるか解からない世にあって、安心して生きてはいられないと思います。(もしかしたら、自分をダメにしてしまうような危ない道を歩いてしまっている人々は、生きる目的もわからず、力もなく、そういうことから守ってくれる人もないからかもしれません。)世の嵐が容赦なく襲ってくるような時も、安全な隠れ家があれば大丈夫なのですが、私たちの最も確かな隠れ家、逃れ場は、神さまです。信じる者は、この神さまの下でしっかりと守られています。詩篇31・9~10には、人が、悩み苦しみ、愁い、嘆き、疲労し、落ち込む様子が描かれていますが、人生はしばしばこのようだと思います。しかし、私たちがそのような中で、傷つくことはあっても、主に依り頼む者は、倒れてだめになってしまうことはありません。大きな試練にあって、絶望的な状況に陥ってしまうような時も、主は水の上を歩いてでも私たちを助けにきてくださいます。神は全能です。

「ゆるし」と「癒し」

 私たちは罪人です。罪を嫌っているのに罪を犯してしまう罪人です。もちろん、犯罪を犯したりは、まずしませんが、でも、聖い愛の神さまに対して、その愛に応える態度においてやはり、どんな人も罪人です。私たちは、人間をはじめ、神が造られた被造物に対して、いつも完全に正しい事を行うことも不可能ですから。どんなに自分には「なんの落度もない」と豪語したところで、それで罪のない人間になるわけではありませんし、むしろ、そのように自分の罪を認めないことこそ大きな罪だと聖書は言っています。罪は、ゆるされるか、裁かれるしかないのですが、もし、ゆるされなければ必ず裁かれるのです。私たちの犯した罪は自然消滅はしないですから、神の裁きを避けたければゆるしていただく他ありません。私たちの身代りとなって十字架にかかり、罪のあがないを完成してくださった主イエスさまは、いつでも、神を信じて自分の罪を悔い改める者をゆるしてくださいます。 罪のゆるしの他にも、私たちの様々なまちがいや失敗を、主はお詫びすればこころよくゆるしてくださいます。そして、失敗の修復にも、求めれば力を貸してくださいます。私は時々「弟子たちの失敗を補ってくださった主よ。私をも顧みてください。」と祈ります。人間は、自分で自分の罪の処理はできませんし、まちがいや失敗の後始末もよくできない者だと思います。そうして苦しみ弱るのですが、恵み深い主が、ゆるし助けてくださり、弱り傷ついた私たちを癒してくださいますので、いつまでも自責の念にかられて苦しんでばかりいないで、(良心的な人ほど自分を責めてしまうと思いますが)主を見上げて安心して進んでいきたいものだと思います。

「導き」

 いろんなことで迷ってしまう時や、難しい問題をかかえて思案する時、右か左かの選択が必要な時、祈れば主が必ず的確に導いてくださいますから、そのような時は、わかるまで祈りつづけることです。

 この他にも、主のいつくしみは、私たちが思っているよりも、考えているよりも広く、深く、高く、長く、神を恐れる者、そのいつくしみを求めて神の御許に来る者に、その折々に豊かに与えられますから、この神を信じて、主にある幸いを味わいながら歩んで行きたいと思います。


黙って耐えられたイエスさま

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で病を知っていた。
また、顔をおおって忌み嫌われる者のように彼は侮られ、われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるにわれわれは思った 彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。
われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。
主はわれわれすべての者の不義を彼の上におかれた。
彼は虐げられ、苦しめられたけれども口を開かなかった。
ほふり場に引かれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。
(口語訳イザヤ53章より)

 何にも言わずに辛さに耐えることは、大変むずかしいことだと思います。特に、他人から不当な苦しみを受けた時に、黙って耐えていることは、ものすごく難しいのを、私は時々体験します。言っても無駄だし、何か言ってしまったら、その不当な苦しみに、もっと振り回されてしまうだろうと感じながらも、何か言いたくなってしまうのです。自己弁護の言葉が胸に沸いてきて、相手にその非を解らせたいと思ったり、事実を訴えたくなってしまいます。

 しかし、上記の聖書のお言葉にあるように、イエスさまは、何の非もない、罪のない神のみ子であられたのに、人々から嘲られ、罵られ、むち打たれ、釘を打たれて、十字架の上で死なれました。この主イエスさまのお苦しみよりひどい不当な苦しみは、他にはないのですが、主は、その不当な苦しみを黙って耐えられたのです。He never said a word.

 聖書を読んで、このイエスさまのお姿を見つめながら、私も黙って耐えなくては…いや、耐えてみようと思うようになりました。こんな罪人の私のために、罪のないお方が、あんなひどい苦しみに耐えてくださったのだと思うと、私も少しなりとも、それに習ってみたいと願う事ができるようになりました。

 もしも、イエスさまの十字架の愛を知らなければ、私は、自分の小さな苦しみに押しつぶされて、いっそう自分を痛めつけて、沈んでしまうしかなかったと思います。十字架のこの愛を知っていればこそ、どんな苦しみをも、悲しみをも乗り越えて生きてゆけるのだと、感謝せずにはおられません。

 ですから私は、世界に二つとない、このイエスさまの十字架の愛を、特に苦しみにもがいている人、悲しみに沈んでいる人に知らせてあげたいと、切に願っています。そのために私の出来ることがあれば、こらからもしていきたいと思います。

わが主イエスさまは
私を救うため
黙って耐えて行かれた
カルバリへの道
ののしられて
あざけられて
よろけながら
何にも言わないで
ドロロサの道を歩いて行くのは
誰なのですか
ああ罪のない神のみ子が
私のために
私の身代わりに

三本の十字架

十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。」そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう。」
(ルカの福音書233943

 ゴルゴダの丘に立つ三本の十字架は、カードやスティッカーなどの絵になっていますので、皆さんも見たことがあるかと思います。この絵を、皆さんはどのように見られるでしょうか。私はこの絵から、神の愛と、福音の本質について、深く教えられました。私はこの絵が好きです。なぜなら、この絵は、「絵で見る Bible」と言ってもよいほど、聖書全体を描き出していると思うからです。

 まず、この真ん中にあるのはイエスさまの十字架です。この十字架が私に語ってくれたことは、人間の罪に対する神の怒りと刑罰(さばき)、その刑罰(さばき)を身代わりに負って、罪のない神の御子が死ぬことによって、罪人を救うことをされた、神の愛です。これは、聖書の中心主題です。

 それから、この右と左にあるのは、ふたりの強盗の十字架ですが、最初はふたりともイエスさまに悪口を言い続けたと、マルコの福音書にあるように、人間の罪の心は自分のせいで受ける苦しみにおいても、神をうらみ、ののしるという、自己本位な態度です。悪が善をののしるということは、現代の社会にも見られることですが…。

 しかし、このふたりの内のひとりは、自分の傍にいるイエスさまのお姿を見ているうちに、ハッと気付くものがあったようです。ちょうど、神を無視して生きていた人が、神の光は触れ、心をうたれるということが、現代でも見られるように…。「この方はオレたちとは違う。この方は十字架の刑を受けるような方ではない。この方は人間以上の聖い神なるお方に違いないと。彼は自分の口をつぐみました。そして、悪口を言い続ける仲間の男をたしなめずにはおれなくなりました。「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない。」そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください。」(ルカ 234042

 この強盗のことばの中に救いを受ける人の姿がよく描かれていると思います。神を恐れること、自分の罪を認めること、イエスさまを仰ぎ、イエスさまを神と信じて告白することです。これは救いの条件です。この強盗は自分の罪を認め、イエスさまを信じて、告白していますが、しかし、彼は自分の罪の大きさを知っていたので「私を救ってください。」とは言えませんでした。「オレはこの方にそんなことを言えたガラではない。」と。ここに自分の罪をほんとうに認めている人の姿があると私は思いました。神がまことの救いを与えてくださるのは、「自分など救いを受ける資格がない。聖い神さまに祈りを聞いていただける価値などない。」ということを知っている人、そのように言えるへりくだった人なのだと思いました。「神の受け入れられるいけにえは悔いし砕けた魂です。」と詩篇5117にあります。

 この強盗は「私を思い出して下さい。」と言いました。彼はイエスさまに「こんな者でも、あなたのわずかなあわれみでもいただけますなら、ありがたいです。」と言っているかのようです。私はこの言葉にこの強盗のこれまでのみじめな人生を見る気がしました。「自分が死んでも思い出してくれる人もいない」ような孤独で不幸な境遇にあった故に彼は強盗になってしまったのかも知れません。孤独と絶望と恐怖と苦痛しか持っていなかったこの男に、イエスさまは力強くおっしゃいました。「あなたは今日、私と一緒にパラダイスにいる。」と。罪人がパラダイスに!イエスさまと一緒にいる!これ以上の福音があるでしょうか。これこそまさに最高の Good News です。ここにへりくだって自分の罪を認め、イエスさまを神と信じて告白するものは誰でも救われるという、神の恵みが輝いています。

 このように三本の十字架は今もわたしたちに強烈なメッセージを伝えてくれています。私の心に伝えられたのは下記のことです。

 一、真ん中の十字架が語るのは、罪のない神の御子が私の身代わりに十字架にかかって死んで下さったこと。その大きな愛は私の胸には入りきれないないが、これを思う度に感謝にあふれとりわけ喜びに満たされるということ。

 二、一方の側の十字架は救い主を目の前にしても、人は自分の高慢と不信仰によって滅びるということ。

 三、三本目は人は死の間際でも悔い改めと信仰告白によって救われるということ。

 このように三本の十字架の絵は人間に死と生命と滅びと救いの選択を迫る厳粛なメッセージであると私は思いました。

 三本の十字架は、聖書を知らない人が見たら、その違いはよく分からないと思います。真ん中のがだいぶ大きいくらいにしか思わないでしょう。しかし、クリスチャンはその明確な違いを知っています。「違いの中に真理が光っている。」と私は思います。 白い紙の上に黒い色で書けば、何が書いてあるかよく分かります。白と黒が反対の色だからです。もしも、「白と黒は同じ色だ。」とか「よく似ている。」などという人がいたら、誰でも「おかしい人」と思うことでしょう。ところが現実には白と黒とがあまり区別がつかないようになってしまっていても、「おかしい。」と言われることが少ないのは、何故なのでしょうか。

 今は律法の時代ではなく、恵みの時代ですから、私たちは律法の規則の中にはいませんが、しかしそれでも真と偽、光と闇、霊と肉、神の国とこの世のものは区別されるべきだと私は新約聖書を読んで教えられています。イエスさまの十字架はそれを識別する光でもあると私は思いました。

 今も、信じて仰ぐ者の心の中にくっきりと立っている主の十字架! 愛の十字架! 救いの十字架! ハレルヤ!


忍耐して走り続けようではありませんか

こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。(ヘブル12・1~3)

 今日は、このみことばを中心に、私が教えられた事を、みなさんと一緒に考えながらシェアしたいと思っています。

 私たちはイエスさまを信じてクリスチャンになったのですが、ある人は十年も二十年も、それ以上も前に…という人もいるでしょうし、まだ三年足らず… という人も、いるかも知れませんが、いずれにしましても、いつかどこかでイエスさまにお会いして、クリスチャンになったわけです。たとえ、クリスチャンホームで育った人でも、生まれた時から信仰者だったという人はないと思います。みんなそれぞれにイエスさまにお会いした日があるのですが、聖書は、私たちを信仰のスタート・ラインに立たせて下さったのはイエスさまだと言っています。

 私たちは誰かから無理矢理信仰者にさせられた…というわけではなく、自分の自由意志で信じて、ここにいるのですが、しかしその背後に神さまが私たちを愛のみ手をもって静かに、また熱心に導いて下さったということを教えられます。考えてみますと、私たちが教会に行くように、イエスさまを信じるように、その方向へと、いろんな事を通し、いろんな人を通して、神は導いて下さったんだ!と思いあたる事がいくつかあるのではないでしょうか。

 私たちの信仰の創始者であられるイエスさまは、同時にまた信仰の完成者でもあると書いてあります。つまり神さまは、私たちの信仰の歩みを最初から最後まで、責任をもって守り、導いて下さる方だということです。私はある時、トンネルの中を通るような状況が長引いたので、神さまに見捨てられたように感じたことがありました。でも、その時、「主はご自分の胸に抱いた羊を途中でポイと捨てられるような、そんな方では決してない。」と諭していただきました。

 困難が大きく、八方ふさがり…といった状況の中で、私たちは信仰が弱くなってしまいがちです。聖書には、信仰を働かせるように、と勧められているのに、私たちは「やっぱり、もうだめかな…」等と、不信仰の思いをどんどん引きのばして、現実以上に問題を大きく見てしまい、沈んでしまうような事があります。イエスさまは信仰の創始者であり、完成者なのですから、私がイエスさまを捨てないかぎり、イエスさまは私を決して捨てない方だという事をしっかり信じていたいと思います。

捨てるべきもの

 主の恵みによって救われ、信仰の走路を走り出した私たちですが、ゴールはまだまだ遠いかも知れません。人生は短距離競走ではなく、マラソンだとよく言われます。私はマラソン競技を見るのが好きで、日本にいた時は、マラソンや駅伝の番組をよく見たのですが、技術らしいものは何一つなく、ただ走る。ゴールを目指して、ひたすら走り続けるだけの、あまり格好もよくない、地味で単純なこのスポーツに、私はクリスチャンの人生を見るような気がしています。

 マラソンの選手は寒い冬でも、ショートパンツとシャツ一枚という軽装で走りますが、信仰の道を走るにも軽装が必要なことを聖書は教えています。ヘブル 12・1に、「いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて」とありますが、口語訳では、「からみつく罪」となっています。ツタがそばにあるものに強くからみつくように、私たちの信仰の前進を妨げるものが、実にしつこく私たちの足もとにからみつき、まつわりついてくるのを感じることが多いと思います。みことばを握って、祈って、力が与えられたので、問題をすっかり主にゆだねることができた、心が軽くなった! と、喜んでいるのも束の間、まもなくまた同じような問題に悩まされる。そうした事を繰り返してしまう…といった事があると思います。

 私たちはここ(ハート)から上は、「ハレルヤ!」と軽くなっているのに、足もとには、いまだ、からみつく罪、トラブル、古い習慣や世の思い煩い等があって、足が思うように前に進んでいかない…といったことを経験します。ヘブル12章で、もう一つ捨てるべきものとして「重荷」が挙げられています。ガラテヤ人への手紙には「人はみな、自分自身の重荷を負うべきだ。」と書いてありますが、人にはそれぞれ、適切なと言いましょうか、必要なと言いましょうか、人としての責任において負うべき重荷があるのだと教えられています。それは大変でも、キチンと負って生きなくてはならないのですが、このヘブル人への手紙でいう重荷は、それとは別のものを指しています。

 この世の事に深入りしたり、他人に干渉してばかりいて、自分の生き方に注意する事を忘れてしまって、ミステークをしたり、他人と自分を比べて自己憐憫に陥ったり、過ぎてしまった事をいつまでも悔やんでいたり、明日の事など誰にもわからないのにくよくよ思い煩ったり、自分と気が合わないと思える人の欠点がしきりに気になってしまったり、あの事、この事にこだわってしまったり、思い悩んでしまう…そういう事が私たちの重荷となっているのではないかと思います。そういうものを、「かなぐり捨てなさい。投げ捨ててしまいなさい。」と、聖書は命じています。でも私たちは、自分の力ではなかなかそれができませんね。人は何かを得るために努力するのはとても難しいことだけれども、捨てる事なんて簡単だ!と思いがちですが、実際は違うようです。自分の心と生き方の中に、いまだ残っているガラクタを捨てる事も、そう簡単ではないことを痛感することも多いのではないかと思います。

 でもそういう面でもイエスさまは弱い私たちを助けて下さいます。自分ではできないと思う人は祈って、イエスさまに頼って努力すればできるようになると思います。この世のいろんなものを背負い込んで生きるのは、スポーツ選手が分厚い布をいっぱい着こんで走るようなもので、とっても走りにくいわけですから、やはり身軽になって信仰の道を走るために、捨てるべきものをすっかり捨ててしまうことが大切だと思います。

忍耐をもって

 走り続ける人にとって、1節には、また「忍耐」ということばがあります。マラソンの選手たちは長距離を走ります。43キロメートル以上。駅伝のようなチーム・リレーでも20キロメートル前後ですから大変な道のりです。選手には、もう体力は残っていないのに精神力だけで走り続けることがよくあるそうです。スポーツの解説者は、「彼はもう口があいていて、目はうつろになっていますから、あとは精神力だけですね。」なんて言います。精神力とは、すなわち忍耐力の事だと、私は思います。 苦しさ、辛さ、疲労、足の痛さ等をがまんして、ただがまんしてゴールまで、ゴールを目指して、ひたすら走り続けます。マラソンの選手が途中でやめてしまったら失格になりますから、何が何でも最後まで走り続けるのです。

 聖書のこの箇所に「忍耐をもって走り続けようではありませんか。」とありますが、「忍耐する」という言葉は「がまんするだけ」といった消極的な言葉に聞こえますが、実は、むしろ非常な精神力、持続力を必要とする積極的な言葉です。前向きな言葉といえるでしょうか。特に神を信じている者の意味はそうです。病気の人が、辛い手術や治療をがまんして受けるのは、「直りたい」という希望を持って、「良くなる」という信仰に基づいてです。人がもし希望を失ったら、忍耐はできなくなります。

 信仰と希望に裏打ちされた忍耐は価値あるものを手に入れるための貴重な道具といえると思います。聖書にも「あなたがたが約束のものを得るために必要なのは忍耐だ。」と書いています。忍耐という言葉は、聖書に数多く見られますが、よく知られているのはローマ5章にある「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練られた品性を生み出し、練られた品性は希望を生み出す。」ということばです。ある人がひとりの老年のクリスチャンに、「あなたの長い信仰生活の中で一番大切だったのは何ですか。」と聞いたそうですが、その老クリスチャンは、「忍耐です。」と即座に答えたそうです。忍耐したから、これまで主に従い続けて来ることができました…ということばだと思います。現代は忍耐が軽んじられている時代ですが…。

 途中でやめてしまわないこと、どんな事があっても信仰から離れないこと、主に従い続けていくことが大切ですが、そのために必要なのは忍耐です。何事も途中でやめてしまったら、それまでの努力や苦労は水の泡になってしまいます。それに、神に従う人生は、何かあったら途中でやめてしまっていいようなものではないのです。私たちが、問題が生じたからと言って、自分の命を簡単に捨てたりはしないことと同じように大切なものです。

励ましを受けて

 「走る」というのは歩くよりも、さらに熱心や継続、努力や注意が必要な姿勢ですが、クリスチャンはそれを自分の力で「ただがまんする」「がまんしなくては…」ということではないのです。イエスさまに助けていただいて走り続けるのですから、心配しなくていいのです。信仰とは「信じ、仰ぐ」と書きますが、「イエスさまから目を離さないように」「脇目をふらないで」と聖書は教えています。うまくいかない事があったり、行き詰まりを感じたり、自分の力不足に悩んだりする時、イエスさまではなく問題の方をじっと見つめたり、まわりに目をやってしまったり、自分の考えに気を取られてしまうことが、わたしなどよくあります。

 「こんな問題はよくある事のひとつだ。」と頭ではわかっていても、現実に直面すると主を仰ぎ見る前に、もう下を向いてしまうか、横をキョロキョロ見てしまうのです。それでは、ちゃんと走れないのですが、みことばは、そんな弱い私たちを一所懸命励まして下さっています。イエスさまが先に耐え忍んで走り抜かれたその道だから、主がはじめから最後まで必ず守り助けて下さるから、心配しないで走り続けてほしいと勧めて下さっています。

 私は聖書の中に見られる「何々しようではありませんか。」ということばに神さまの温かいハートを感じるような気がします。「ああしろ。」「こうしろ。」というのではなく、「そうするんだよ。大丈夫だから。さあ、がんばろうね。」と優しく諭して下さっているような、神さまの愛を感じさせられています。このような励ましをいただいているのですから、これからもお互いに助け合い、祈りあって、信仰と希望と感謝と、そして忍耐をもって、主の道を、ゴールまで走り続けていきたいと、ねがわさせられています。

 私たちはどこへ行くのかわからないような不確かな道を走っているのではなく、確実にゴールに至る正しいコースを走っているのですから、安心して、しかし、しっかりと主を見上げつつ、心して走り続けてまいりたいと思います。


風雨の日に

この悲しみの理由(わけ)を主よ、
私に教えて下さい
マイナスだけが大きく見えて沈む私に 
主よあなたが知っておられる 
この悲しみのプラスの面を見させて下さい
─「祈り」より 

 「どんな時に詩をつくるんですか」と時々人に聞かれますが「こんな時に...です」とはっきり答えられないでいます。でも私が詩を作るのは、多くの場合、穏やかな晴れの日ではなく、雨の日、嵐の日、寒風の時です。

 順境の時には満ち足りた気持ちで過ごしていて、心は余計な活動をする必要がないからか、何となく座っているような状態なのですが、何かあると、心はハッとして立ち上がって動き始めるのかも知れません。そんな時に詩(言葉)が生まれるような気がします。

 また私は信仰者でも、試練の時、「これも感謝。ハレルヤ」とすぐにスイスイと乗り越えることができなくて、つぶやいたり嘆いたり、うめいたりするといった精神的な無駄骨を折って時間をかけてでないと乗り越えて行けない、そんな弱くて愚かな者なので…ということかも知れません。(沈着、冷静に黙々と前進できないから…)

 聖書の中にも、特に詩篇等の詩歌には、人の世の矛盾、理不尽に苦しみ、嘆き悲しみ、怒り、うめいた人の姿が赤裸々に描かれています。しかし聖書にある詩は神を信じている者がたとえどんなに深い苦悩の中でも、その行く先では、必ずまた主への信頼と希望を取り戻し光を見いだしている事が描かれています。主のみ名をたたえる賛美の歌でしめくくられています。

 主に従って行く者は、決して闇の中に沈んで終わってしまうことがなく、弱ることはあっても、きっとまた力強く立ち上がって前進することができる。信仰者の頭上には主の光が常にあるという体験を私もさせていただいて感謝しています。そんな主の恵みへの感謝の詩も、私なりにつたない言葉で歌ってみます。

 それから星のようにピカッと光るもの、ほのかに美しいものを目にする時、とても感動するので、それを口に出すのはもったいないような気がして、静かに文字にするのを楽しんでいます。恵みに満ちた神さまはこの寒々しい人の世にも数々の美しいもの、輝くものを置いて下さって私たちを暖めて下さっています。何とすばらしいことでしょうか!

 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで」(詩篇136・1)