天への道を示して

 私たちがアメリカに来て十五年近くなりますが、その間にいろんなことがありました。神様は日本においてもアメリカにおいてもいろんな体験を私たちに与えてくださいました。その中でも、病気の人々、特に死を前にした人々へのアプローチについて、アメリカで体験した事を記してみたいと思いました。ここに記す人々は女性ですので、主人よりも私のほうが、より近くで関わることになりました。

M子さんのこと

 最初の人はM子さんという方でした。アメリカ人のクリスチャンの御婦人から、M子さんを主に導いてほしいと依頼を受けました。私たちが、この方を病院に訪ねた時、彼女はもう、死が近いのだと聞かされました。いきなり福音を語ることも出来ないので、まず自己紹介やら、ありきたりの挨拶やらをしました。いろんな語らいの中で、M子さんの日本の家族が新興宗教に入っていて、彼女もその影響を受けていることがわかりました。でも、この方は心の柔かい方だと思わされました。

 しばらくして、私たちが帰ろうとした時、親身になってM子さんの面倒を見ておられた、アメリカ人の御婦人が「M子さんはイエスさまを信じましたか」と聞きました。私たちは「一回では無理です。それに、彼女には違う宗教の影響があります。」と答えました。「祈り続けます。」とその方は答えました。

 二回目には、M子さんに福音を語ることができました。M子さんは、こちらがびっくりするほど素直に、熱心に福音に耳を傾けてくれました。その時、私の心の中にかなりの葛藤がありました。「今、決心に導くべきか? 早すぎるか?」ということでした。「二回の訪問では早すぎるかもしれない…」という思いと、「もし、この次に来る時まで、この人の命がもたないとしたら…」という思いと、心の中で戦いがありました。私は、心の中で必死に祈ってから、思い切って「M子さん、イエスさまを信じますか」とききました。M子さんは、「はい」と、はっきりした声で答えました。「それでは一緒に祈りましょう。私の後について祈ってください。」と言って私が祈ると、彼女は私の後について祈りました。自分が、神を信じない罪人であったこと、その事を悔い改めて、イエスさまの十字架の救いを信じます。という祈りでした。この魂は救われました。そして、聖書のみ言葉と、賛美の歌を、彼女は大変喜びました。

 その後で私は、風邪をひいて訪問できなくなりましたので、教会の二人の姉妹が代わって行ってくれました。訪問から帰ってきた二人の姉妹は、「M子さんはとっても輝いていましたよ。救われて、うれしくてたまらない。といったすばらしい表情をしてましたよ。」と報告してくれました。風邪が治ったので、三回目に私が訪ねようと思っていた、その前日にM子さんは天に召されました。アメリカ人のクリスチャンの御婦人は、死の床にあった孤独な日本人を、親身になって世話をし、助け、祈ってくださったのです。神様はこの方の愛の労と、その人に「魂の救い」という永続する真の幸いを与えたいとの、真心からの祈りに答えて、M子さんを救ってくださったのだと思いました。私は、そのかたの愛のお働きにお手伝い出来たことをうれしく思いました。

Y子さんのこと

 次の方は、Y子さんといって、私たちの家の近くのアパートに住んでいました。ここでも、アメリカ人のカトリック信徒の方が、Y子さんをお世話してくださっていました。(もちろん先の方と同じようにあくまでも無償の愛の奉仕でした。)ご主人や、まだ小さいお子さん達を家に置いて、ずっと付き添ってくれていました。

 Y子さんは、末期の癌でしたが、テレビ伝道者の間違った教えを信じて、自分は死ぬことはないから、と病院に行くことを拒んでいました。それについて、私たちがいろいろ説明して、その間違いに気ずかせてあげようとしましたが、短い時間では無理なようでした。私たちがみことばを語り、賛美を歌ってあげると大変喜びましたが、この方は二日後に亡くなりました。「この次には、日本語のメッセージのテープと、賛美歌のテープをもってきてあげます」と言った約束は果たせずにしまいました。

 カトリック信徒の方が、危篤のY子さんを救急車で病院に運んだのですが、まもなく亡くなったようでした。まだ43才でした。私は、死後2時間ぐらいたった彼女に会いました。朝の5時頃でした。死んだ人の手は、本当に冷たいでした。主人が司式して、私が奏楽をして家族と、僅かな友人だけの小さなお葬式をしてあげましたが、もっと早く、このようなとても気の毒な(病気だけでなく、家庭的にもその他にも不幸を抱えていたとききました。)、孤独な日本人に届くことができていたら…とたいへん悔やまれました。

T子さんのこと

 三人目は、T子さんといいました。この人も重病でしたが、とても性格の強い人で、かなりの痛みを抱えながら時々教会に来ていました。クリスチャンの親切に心を動かして、すこしずつ主に心を向けるようになりましたが、私は、この方が末期の癌で先が長くないと聞きましたので、まだ大丈夫な内に、はっきりした信仰告白に導きたいと、祈っていました。この人も、先のお二人と同じように、辛い、孤独な人生を歩んで来た方で、心に深い傷を持っていました。最初は、人間の親切には心を開いても、神の愛に対してはかたくなな態度でした。自分には罪などない、信仰など要らないと言い張っていました。

 でも、私は祈って、主に導かれて、思い切ってこの人に、「人間は一度死ぬことと、死んだ後さばきを受けることが定まっている」という、聖書の言葉を告げました。教会に来ていても、クリスチャンの交わりに喜んで加わっていても、もしこの人がイエスさまを心に受け入れなかったら、その魂は滅んでしまう。折角教会に来た魂に人間的な愛だけを与えて、救いに導いてあげないで、天への道を備えてあげる事をしなかったら、それは、単に自分の主にある務めを怠るという問題だけでなく、その人の本当の幸いを願ってはいないことになり、「愛がないのだ」ということになるのではないかと、聖霊に強く諭されました。日本人の場合特に、福音を直接語るのは、大変難しいことが多いのですが、勇気を持たなければ、主がお命を捧げて与えてくださった愛を無駄にしてしまう、と教えられました。

 T子さんは、最初はこれに、かなり抵抗されましたが、しかし聖霊は働いてくださって、少しずつ自分の罪を認め、十字架を信じ、バプテスマへと導かれました。その後体の方も強められて、しばらく元気でいましたが、数ヶ月後に感謝しながら天に召されていきました。

Fさんのこと

 Fさんという方も、私たちが病院にお訪ねした時は末期の癌ででしたが、みことばに喜んで耳を傾け、私が歌う賛美を大変喜んで聞いてくれました。Fさんは、傷ついた人生を背負ってきたにもかかわらず、とても素直な方で、間もなく主を受け入れました。段々と病状が進んで、もう話すことが出来ない状態になった時も、私が賛美を歌ってあげると目を輝かしたのを、今でも思い出します。もともとお顔のきれいな方でしたが、クリスチャンになってからは、そのお顔と、その瞳が本当に美しいでした。その静かな輝きに、私のほうが慰められたのでした。

 私たちは、ホスピスにも何回か訪問しましたが、そこへ行く度に、私は自分が健康を守られていることが、なんか申しわけなくて、うつむいてしまうのですが、そこで忘れることの出来ないことがありました。一度きりの訪問でしたので、お名前も忘れましたが、その方は私たちがお訪ねした時、すでにコーマの状態でした。でも、「人は最後まで耳は聞こえているから」と言うことばを聞いていましたので、そのかたのご主人に頼まれて、行ってお話したのでした。主人がみことばを語り、私が賛美を歌いました。すると、全く反応をしないはずのその人が、「アアー」と大きな声をあげました。びっくりしましたが、私はなおも歌い続けました。2節を歌い終わった時も、やっぱりまた「アアー」とこえをあげました。しかしその後は、前と同じコーマのままでした。

 私はこの経験を通して、賛美の力の偉大さを強く知らされ、深い感動を覚えました。心からの主への賛美は、歌うものの力になり、慰めや励ましも豊かに与えますが、また、聞く相手にも大きな天の恵を与える事を実感させられました。人の魂を主に向けるものは、聖書のみことばと、祈りと、心を込めて歌われる賛美と、そして、主にある者たちの愛の労だと思います。そのことを、自分の力ではよく出来ませんが、主のお力をいただいて、さらに励んでいきたいと願わされています。主に栄光がありますように!


癒しについて

 癒しの体験を持っている人は、おおぜいいると思います。私も何度か、主からの癒しをいだだきましたが、今日はその証ではなくて、癒しに関して私が見たり聞いたり、教えられたり、考えたりしたことについて、話してみたいと思います。

 私たちの信じている神様は、全能の方ですから、癒す力をもっておられます。私たちを創られた神様は、私たちを癒すことができるのです。イエス様が、荒れ狂う海の波をお静めになったことが、聖書に書いてありますが、それは、イエス様が自然界の主であられることの証明でもあると思います。自然界、時間、空間、そして万物の主であられる神は、人間の体の主でもあられるのです。それに、神様は私たちを愛し、私たちのことを顧みてくださっているので、私たちを癒すことを、よしとしてくださるのだと思います。

 ただ、その神様の癒しは、ワンパターンではなくて、多様なのです。聖書の中でも、イエス様が人を癒された方法は、いろいろであることが解かります。旧約聖書にも、癒しの記事がありますがやはり一様ではありません。 現代でも、牧師や癒しの賜物を持っている人に、祈ってもらって癒された、という人もありますし、自分で一所懸命祈って癒された、という人もあります。また、教会でみんなが心をあわせて祈り続けたので、多くの人の祈りが積まれて、癒されることもよくあります。癒しには、神様の聖手による直接的なものもあり、医者や、薬や、健康法といった、何らかの媒介による間接的な癒しもあると思います。

 イエス様は、最も力ある癒し主ですが、医学を肯定しておられます。「丈夫な人には医者は要らない、要るのは、病人である」といって、医者の必要を認めておられます。また、「ルカの福音書」と「使徒の働き」を書いたのは、ギリシャ人の医者ルカでした。「医者」という、科学的見地からものを見る立場にある人が、神の直接的な癒し、つまり奇跡を記していることは、聖書に書いてあることが、実際に起こったこと、まやかしや作り話でなく、まちがいなく事実であるということの、大きな証明であるといえると思います。

 ある病気は、(ある人は)、どんなに祈っても。医学のあらゆる方法を試みても、癒されない、ということがあります。それは、その人の信仰が強いとか、弱いとか、神に対して忠実であるか否か、などにはあまり関係がないようです。死者さえ生き返らせたパウロほどの信仰者でも、自分の病気は癒されなかったと言っています。

 このようなことに関して、もうかなり前のことになりますが、私は一つの忘れられないことを聞いたことがあります。日本に来ていた中年の男性の宣教師のことです。その宣教師は、ある時の集会で、「自分は特別な病気をもっていて、一日五百円以上もする薬を毎日飲まなければ、生きていることができない体である」と話されました。その薬代のために、祖国の多くの祈りの友が、特別に献金してくださっているのだと話されました。(この方は今はもう、リタイヤされたか、天に召されたかもしれませんが…)私はこの話を聞いた時「どうして神様は、この方を癒されないのだろうか?もしこの方が癒されたら、一ヶ月二万円近くもの薬代が浮くでしょうし、それを、伝道のためにもっと有効に用いることができるのではないだろうか。」と思いました。神様は何か無駄なことを見過ごしておられるように思いました。しかし、これは私の浅はかな考えであって、神様にはもっと尊いお考えがあるのだということに、後で気がつきました。神様は、その宣教師の方が、重い病気を押して日本の魂のために労される、そのお働きを豊かに用いてくださっていることを知りました。また、その先生をサポートしておられる方々の心には、健康な宣教師に対するよりも さらに深い愛と、熱意が燃えているのだと知りました。自分たちの献金に一人の宣教師の命が掛かっていると思えば、どんな犠牲を払ってでも献げ続けなければ… と、熱い祈りのうちに、尊い献げものが届けられているのだとわかりました。

 神様のお力とあわれみによって、私たちの病気が癒されることは、とても幸いなことであり、感謝なことですが、たとえ癒されなかったとしても、その中で。主に信頼し、主との交わりを深めることができたら、それもまた、祝福なのではないかと思います。癒されるほどの信仰と祈りは、すばらしいものですが、今は癒しをいただけなかったとしても、主を疑わず、主と共に歩む人の信仰は、さらに素晴らしいのだと私は思います。

 病気になって一番辛いのは、病気のために心まで弱くなり、暗くなって沈んでしまい、感謝も希望も失ってしまうことです。私はあるとき、同時に三箇所の体のトラブルに悩まされたことがありました。足を怪我して、風邪で喉が痛くなって、お腹をこわしたのでした。それで私は主につぶやいてしまいました。「どうして私ばっかり、こんなにいっぱい…」と。すると主は「それではあなたは、目が悪いのか。耳が悪いのか。手も傷めたのか。頭が悪いのか(能力のことでなく)。心臓もか。肝臓もか。腎臓もか…」「いいえ、いいえ、いいえ主よ、すみません。悪い所はたった三つで、大丈夫なところがその何倍もありますのに、すぐ呟いてしまったことをどうぞおゆるしください。」と私はお詫びして、主に感謝しました。人は、辛いことがあると、そのことばかりに気を取られて、恵みをいただいている多くの面を、見落としてしまうのでないかと思います。だから、病気など、辛いことの中で絶望してしまうのかも知れないと思いました。

 ある人が私に尋ねたことがありました。「腰が痛かったので、一生懸命祈ったら癒されたんです。ああ良くなった、と思って喜んでいたら、また、そのうち痛くなったんです。これは、主の癒しではなく、自分の思いこみだったんでしょうか?」私は、「そうではないと思います。祈って癒しを体験したのは、やっぱり癒しだったと思います。ただ、たとえば車でも修理してもらって、直りますよね。そして元のようにちゃんと走るようになりますが、また故障したりもします。そしたら、あの時修理に出して、直ったことは事実ではなかったのかというと、そんなことはないですよね。私たちのこの肉体はテンポラリーなものですから、その癒しも地上ではテンポラリーなもので、永遠ではないのです。」私たちは壊れやすい土の器です。ですから。この地上にある内は一度癒されても、また病気になることもあるわけです。もし、頭が痛いので祈ったらよくなったのでしたら、それはやはり主の癒しとして感謝したらいいと思います。また痛くなったら、また祈る、その繰り返しで少しもおかしくないと思います。 人生は同じようなことの繰り返しで成り立っているのですから、信仰者も、聖書を読む、主に祈る、感謝する、信仰者としてなすべきこを守る、より神様を知るために励む、等などのことを繰り返していくのです。毎日、毎週、毎月、毎年少しも変わらず、止めることをしないで、繰り返していくのです。大切なことは繰り返すことで実を結ぶのですから、それはとても価値ある生き方なのです。

 私は、体力にはあまり恵まれていないので、無理をすると必ず健康の面でブレーキが掛かってしまうものですから、それをかなり苦にしてこんなふうに祈ったことがありました。「神様、もし私に、どんなに痛めつけられても傷つかない心と、どんなに無理をしても疲れない、頑丈な体を与えてくださったら、私はあなたのために何でもします」と。しかしこれは、間違った祈りでした。神様は私たちを鋼(はがね)の器として作りませんでした。壊れやすい土の器として作られたのです。ですから私たちは、ちょっとしたことでも、傷んだり病気になったりするわけです。そのことを諭されたので、私の祈りは変わりました。「神様、あなたがこの弱いものを支え、守ってくださいますので、私はあなたのために、自分の出来ることを一所懸命いたしますので助け導いてください。」

 どこかが痛い、だるい、熱がある、などの普段とは違う体の症状には気をつける必要があります。それは健康の赤信号として、神様が私達に与えておられる貴重なサインですから、ないがしろにしないで、薬や医者に行くべきかどうかも考えて、神様の導きを祈ることも大切と思います。生まれつき丈夫な人と、体の弱い人がいますが、丈夫な人は、その体力を主にささげて働き、体の弱い人は、自分の健康管理によくよく気をつけながら、やはり、その体を主にささげることが大切だと思います。自分が土の器であることを思って健康に気をつけることは大切ですが、でも、ちょっと具合わるいからといって、「なにも出来ない」「どこへも行けない」というのも残念だと思います。寝込むほどのことでなかったら、少しぐらいは我慢して、主が支えてくださると信じて歩んで見ることも大切なのではないかと思います。

 病気は辛いことですが、しかし、病気がしばしば、人の心に優しさや、謙虚さや、忍耐や、深く考える姿勢など、人としてとても尊いものを与えることもあると思います。例えば、星野富広さんや、水野源三さんのような方が、もし健康な人だったら、あんなに人の心を打つ、美しい詩や絵を描かれただろうか…と思うことがあります。

 体の癒しは、心の癒しと同様に、主が恵みとして与えてくださることを信じて、これからも共に祈っていきたいと思います。でも、たとえ体の具合が悪い時でも、主が、寄りすがる者を常に顧みていてくださることを信じて、主への感謝を忘れないように、励んでいきたいと思います。


見えるところでなく

わたしの思いは、あながたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
主の御告げ
天が地よりも高いように、
わたしの道は、あながたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(イザヤ55・8~9)

 以前おりました教会でのことですが、私たちの引っ越したばかりの家が、西陽が入るというので木を植えることになり、数人の兄姉に手伝ってもらいました。暑い日で、みんな汗だくになりながら一生懸命働いてくださったのですが、その中の一人の兄弟が、怪我をしてしまいました。(シャベルで足を切ったのです。)そのことを聞いた姉妹の一人が、「わたし、神様がみんなを守ってくださるように、一生懸命祈っていたんです。祈っていたのにどうして?…」と疑問のことばをもらしました。その方はいつも、熱心に祈ってくださる方でした。 祈った事が、祈り続けていることが、「速やかに答えられない」、「祈っているのに良い結果が得られない」というような時、私たちは失望し、心が曇ってしまいますが、そういったことは熱心に祈っている人にも、よくあることだと思います。

 なぜなのでしょうか。神様は、時々私たちの祈りに耳を塞いでしまわれるのでしょうか。それとも神は、私たちの祈りを、かなり気まぐれに取捨選択して、答えたり、拒んだりするというような事なのでしょうか。いいえ、決してそんなことはないです。神様は、私たちの祈りを、私たちが願うよりも、もっと値の高いものにするために、時や方法や結果を定められて、信じて祈る者のために、いつも最善の答えをくださるのだと思います。

 実は、兄弟が怪我をしたその日の出来事は、そこにいたみんなが神様から大切な事を教えられるのに、有益だったのです。その日私たちは、主にある愛の労の貴さ、助け合い、心を通わせあう交わりのすばらしさを深く味わいました。また、十分な注意や、用意の大切さについて戒めをいただいたり、幸い傷も浅かったので、大変な中にも主の守りの聖手があったことを、みんなで感謝したのでした。

 冒頭に挙げましたイザヤ書のみことばにありましたように、神様のお考えは人間とは違うようですが、私たちはそのことがよく理解できなくて、しばしばかなりせっかちな結論を出してしまいます。その結果、目に見えることを全てとして、思い煩ったり、失望落胆してしまうことが多いように思います。

 「幸福の条件」についての質問に、一般的に出る答えが、「健康、才能、良い仕事、経済的豊かさ、良い家庭」等だといわれますが、でも、これらの条件が全部揃っている人は、多くはありませんし、たとえ全部揃っていて「申し分のない生活」をしていても、幸福でない人も沢山います。「自分の持っているものが、いつ奪われるかわからないと思うと、不安で夜も眠れない」と言った人もいました。いろんな面でずいぶん恵まれているのに、自分の内には、感謝も、喜びも、希望もないまま、不満だらけの虚しい日々を送っている人を、私はこれまで何人も見てきました。

 私が若い頃行っていた教会に、一人の求道者の婦人がいました。四十代位の子供のない主婦の方でした。なぜか、私のことを特に気に入ったから…と言われて親しい交わりを求められました。その人は、私の顔を見る度に「つまらない、生きていることなんて全然つまらないわ。お金なんて要らないのよ.主人は私に給料を全部くれるけど、私、『そんなもの要らない』って時々破いちゃうのよ。主人はそれを黙って拾って貼りつけて使うみたいだけど、バカよね。私のことなんて捨てればいいのに、真面目すぎて困るのよ。ちっとも面白くない」と、ぶつぶつ、ぶつぶつ呟いていました。私はそれに、どう答えていいか解かりませんでしたが、その人は毎日美容院に行って髪型を変えていました。家具も、洋服も高級品ぞろいで、ハタから見たら羨ましいような生活をしていました。ご主人も、とてもステキな善い人でした。

 あるとき、私の住んでいたアパートの隣の家が火事になりました。昼日中の火事でした。その日私は、風邪を引いて休んでいました。隣の家は全焼しましたが、私のアパートは類焼を免れました。でも窓のサンが焦げたので、消防車に水をいっぱいかけられて部屋中がびしょ濡れになりました。 この時、あの呟きの婦人がいち早く駆けつけてくれました。エプロンをかけて、バケツと雑巾を持ってきて、「あなたは休んでいなさいね。私が全部かたずけてあげるから。買わなくてはならないものは、えーと、あれと…、これと…」と、メモをしながら、何度も買いものに走ってくれました。額の汗をぬぐいながら、せっせと掃除をしていたその時の、あの婦人の表情は実に晴れ晴れとしていて、ハッピーそのものでした。「つまらない」を連発していた暗い表情は一変して、別人のようでした。初めて見る顔でした。私は、火事よりも、その人の顔が変わったことにびっくりしました。人のために働ける事が、よっぽどうれしかったのだと思います。人の幸福は、外側のものにあるのではなく、誰かのために役立つところに、つまり愛に生きることにあるのだということを強く教えられた出来事でした。

 私たちの牧会生活は、日本でも、アメリカでもいろんな所を通り、戦いも多いでした。祈っても、祈っても事はよくならないどころか、ますます悪くなるように思える事が個人の歩みにおいても、教会の事柄においても、数多くありました。八方塞がりで身動きのとれない状況が何度もありました。人間的にはとうてい希望のもてる状態ではない、文字どおり絶体絶命と思われることもありました。でも、神の愛と力はいつも十分で、「下には永遠の腕がある」とのみことば通りに支えられ、必ず助けが与えられて無事に今日まで主の道を歩いてくることはできました。みことばの約束通りに万事が益になりました。「苦しみに会ったことは私に幸いでした。それによって私はあなたの戒めを学びました。」と詩篇にありますが、困難や、痛みや、欠乏が、私たちにとって幸いだったのだと、今、確信をもっていうことができます。神は常に真実でした。聖書は、私たちの歩みのあらゆる面に、明確で価値ある答えを示してくださっています。

 夫がテキサスで学んでおりました時の、クリスウエル・カレッジの創始者、Dr・クリスウエルは数年前、主のみもとに帰られましたが、私は先生の存命中に何度かお会いする機会が与えられました。Dr・クリスウエルは、ほんとうにすばらしい霊的な器で、世の多くの人々からも、多大な尊敬を受けておられた方ですが、先生は52年間、聖書を創世記から黙示録まで、余すところなく語ってきたといわれました。あるとき先生は、もしも聖書が神の言であり、真理であると言われることが事実でないんだったら、聖書が、世の教えとたいして変わらない、程度のものでしかないんだったら、もし自分がそうとしか、信じてないんだったら、「聖書なんか要らないんだ」と言って、本当に聖書を講壇の下にポーンと放り投げました。娘がびっくりして「あらら!」と声をあげたのですが、先生はその後で、「私は聖書を神の言であり、かけがえのない真理だと心から信じているから」とひざまずいて聖書を拾い上げ、胸におし抱きました。そして、聖書が自分の生涯にとってどんなに偉大であったかを、涙を流して力説なさいました。

 クリスウエル先生は、ダラスのファースト・バプテスト教会で牧会しておられましたが、若い人たちの伝道と育成のためにと、体育館を建て、学校も建てたのですが、当時「そんなお金はどこに有るんだ」と言って、反対する人たちもあったそうです。でも、「神様はミリオン弗を与えてくださって、残った借金はペニーだけだった」と言われました。私はこれを聞いて、自分の不信仰を責められました。疑いたくなるような、呟き嘆きたくなるような現実は、あちこちに転がっているのですが、だからといってそうしてばかりいたら、私たちは神を知らない人と、同じ生き方しかできないことになります。困難な現実は巨人のように大きく、それに比べて自分は、小さく弱いく、足りないのですが、全能の神様を信じるところに力は与えられ、希望が湧き、不可能は可能になります。問題ばかり見つめていると、神様が見えなくなってしまいますので、気を付けて、悔い改めて、信じて、祈って、みことばを握って前進できるように、励んでいきたいと願っています。


必ず解決のある人生

 「神さまを信じたら、何かいいことがあるんですか」と、言われる方が時々います。「あります。いっぱいあります」と答えると、「それじゃ、いいことだらけなんですか」と、また訊かれます。「そうですね。いいことっていう意味は、いろいろあると思いますけど、辛いことや、悲しい目にも会わない、なんの問題もない、ということではありません。この世の嵐は、神さまを信じる人にも、信じない人にもやってきます。でも、神さまを信じている人は、嵐に耐え、嵐を乗り越えて進む力が与えられますし、どんなマイナスの事柄も神さまがそれを、益にしてくださるという約束をいただいていますから、希望を失わずに祈ることができます。そして、どんな難しい問題にも、必ず解決が与えられるのを経験することができます」と、私は信仰の恵みを伝えます。

 聖書には、「人には出来ないことも、神にはできる。神にはどんなことでも出来る」と、書いてあいます。(マルコの福音書1027、他)真の神さまは、全知全能の方ですから、人間のように、「どうにもならない」ということはないのです。でも、私たちが問題に直面した時に、簡単にあきらめてしまったり、「そのうち何とかなるんでは…」といった投げやり的な態度だと、その解決は確認できずにしまうかも知れません。信仰と希望をもって、ひたすらに、熱心に心から祈り続けていく時に、神さまからの祈りの答えをいただけるのです。神さまは、私たちの問題を解決する知恵と、力と、愛を持っておられますから、それを信じて求める者に答えてくださるのです。

 でも、時々私たちは、試練に疲れ果てて、信仰が持てなくなったりします。しかし、信仰もまた、神さまからのギフトなのです。神さまは、信仰を失いかけている私たちをあわれんで、助けてくださり、励ましてくださいます。ですから、信じられなくなったら、信仰をくださいと祈り、心が沈んでしかたがない時には、それを神さまに告げて、力を求めればいいのです。私たちが、どう祈ったらいいかわからないような時も、神さまは聖霊によって、私たちの祈りを導いてくださるという、約束が聖書にあります(ローマ8・26)。

 私は、問題を抱えて悩む時に思います。「神さまを知らない人は、こんな時、どうするのだろう。もし私が、祈ることを知らなかったら、どうやってこれを乗り越える事ができるだろうか?…」でも、神さまを信じているから、こんなにも心強い思いでいられるんだなと、感謝せずにはおられません。神さまを信じる人生は、私たちが考えている以上に幸いな人生です。何があっても、不安にさいなまれて、身動きできないようになることがないのです。それは、「気にしない、気にしない」とまぎらわすのではなくて、本当に力と解決が与えられるからです。

 人間は弱い者です。不完全な者なので、失敗もしでかしてしまいます。しかし、その失敗さえも、本気で神に頼って生きる者には益になります。先日、私が神さまから教えられた事は、「人間は大きな失敗をする事があるけれども、神さまは、どんな小さな失敗もなさらない」ということです。ですから、この真実で、完全な神さまに私たちの人生をお任せしていけば、安心なのです。大丈夫なのです。

 「あなたがたの試練はみな、人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えられることができるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。」(コリント第一1013

 イエスさまを信じましょう。心から信じましょう。どんな時にも信じましょう。


キャメラル?? チャラメラ??

 もうかなり以前の事ですが、四歳ぐらいの女の子が私をつかまえて言ったことがありました。「あのねぇ、うんとねぇ。B子ちゃんて変なんだよ~。『キャメラル』のこと、『チャラメラ』って言うんだよ。おかしいね~。」「ふ~ん。そ~お。」と私は真顔でそれに答えながら、心の中で苦笑してしまいました。つまり、それは「キャラメル」のことだったのですが、(「キャラメル」は今はもう人気がないようですが、以前は子供たちの大好きなお菓子のひとつでした。)「キャラメル」という発音は幼児には難しいらしくて、たいていの児は「キャメラル」だとか「チャラメラ」だとか「カダメル」などと言っていました。

 私はこの女の子の言葉を聞いた時、聖書の中の一つの言葉を思い出しました。「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などと言うのですか。見なさい、自分の目の中には梁があるではありませんか。」(マタイの福音書7・3~4)「自分の事は棚に上げて」とよく言われますが、自分も同じか、それ以上の間違いをしているのに、他の人を咎めてばかりいたり、あら探しをしたりする事は、子供よりも、大人の世界に頻繁に見られると思います。あの幼児の言う「おかしいね~。」は他人の事ではなく、自分の事である場合が多いのではないかと思いました。

 聖書には「人をさばくな。」という注意が何度か出て来ますが、私は友人から聞いたことを思い出します。友人の学生時代、あるグループに入った後輩のひとりに「おはようございます。」と挨拶はするけれども、一度も頭を下げたことのない人がいたそうです。(日本では上の人に頭を下げて挨拶するのが通常とされていますから、)先輩たちは「あいつは生意気だ。一度とっちめてやろう。」等と憤慨していたのだそうです。ところが間もなく、彼が人に頭を下げない、いや、下げることが出来ない理由(わけ)が解ったのです。その人は背中か首の辺りに骨の異常があって、体を前に曲げることができなかったのです。これを知った友人の仲間たちは、自分たちの浅はかさを深く反省し、人を外面の言動や表面だけで判断するのは間違っていると強く教えられたということです。

 私たちは自分の事でも、他人の事でも、周囲や社会の様々な事柄でも、知り得る事、よく理解している事はそんなに多くはない、むしろわずかなのだという事実を謙虚に受けとめて、簡単に決めつけたり、すぐに他人を非難したりしないように気をつけなくてはならないと思います。

 「人をさばく」事と、「悪いことを判断する」事とはどう違うのでしょうか? という質問を、私は何度か受けましたが、たいへん難しい質問で、簡単に答えは出せないと思いました。

 しかし私は、そのように真剣に悩むような誠実な人は、平気で人をさばいたりはしない人だと思います。「人をさばくな。」と言っても、白も黒も判別してはいけないという事ではもちろんないですし、「人をさばいてはいけないから…」と何事もウヤムヤにしていいと言うわけではありません。問題や事の真相を見極めようとしてはならない、とにかく「目をつぶれ」と、聖書が教えているわけでは決してないのです。現代は特に問題や欠如や不正等とキチンと向き合うことを避けようとする傾向が強くなっているように見えますが、聖路加病院元院長の日野原博士は「現代は区別も差別も識別もいっしょくたにされてしまって、確かなものがわからなくなっている。」というように嘆いておられました。本当にそうだと思いますが、そういう時代に「イエスはイエス、ノーはノー」と言うにはかなり勇気が要るかも知れません。

 ただ人の世には、押しても引いても、その両方を注意深く試みても、なお解決できない事も多くあります。ケース・バイ・ケースの対応が求められますが、受容によっても、拒否によっても、忍耐によっても、沈黙によっても、言明によっても、その他どんなふうに対処してみてもどうにもならない事態、状況は幾つもあるのです…。そんな中で真面目な人はとまどいや葛藤、苦痛や悲憤を覚えるのは当然でないかと思います。しかしそれでも、なお「人をさばくな。」の聖書のみことばに心を留めながら歩んでいくことは、とても大切なことだと思います。最終的に人をさばくのは神さまですし、正しいさばきは神さましかできないのですから、よくよく慎んでいきたいと思います。

 何はともあれ、過ぎた日のまちがいや失敗を神さまにゆるしていただいて、新学期の始まるこの9月!新たな思いで、聖書の光に導かれつつ、愛ある生き方に励みたいものだと思います。私たちの「キャメラル」をも、「チャラメラ」をも、「カダメル」をも忍んで、愛をもって受けとめて「キャラメル」と正確に言えるような歩みへと導いてくださる神さまに頼って、互いを大切にしながら共に感謝しつつ、進んでいきたいと思います。


高級新品

 娘が小学生の時の教師に、何にでも「高級新品」と札をつけて喜んでいるおもしろい先生がいました。とても温かい感じのする先生でした。あの先生はきっと生徒の一人一人をも「高級新品」として大切に扱って下さっていたのではないかと思います。

 実は、私たちの人生も文字通り「高級新品」のように価値あるものなのではないかと思います。もし、私たちがその事を本気で心に留めるなら、もっと自分の生き方を大切にすることができるのではないでしょうか。高価な本ものは何年たっても新品の輝きを失わないと言われますが、そのためにはやはり、それを注意深く、丁寧に扱い、絶えず磨いておく必要があります。それは私たちの人生にも言えることではないかと思います。

 日本語には美しい言葉が多いのですが、中には「よくない言葉」もあります。その中の一つが自分の家族の事を愚妻とか愚息等ということです。これは、他人の前で身内を尊ぶ言葉を口にするのは「はしたない」とする日本の社会通念に基づいていて、一般に使われる言葉ですが、私は「よくない言葉」だと思います。まだ若い母親が「うちには愚息が三びきもいて…」と笑いながら言うのを聞いて私は心が曇りました。本気でそう思っているわけではないにしても、神から授かった大切な自分の子供をそんなふうに卑下した言葉で言ってはならないと思います。自惚れからではなく、創造主への畏敬のゆえに、身内の者を尊ぶ言葉を口にするのは、美しい事であり、人を生かすものだと思います。生涯の伴侶にも、子供たちにも「高級新品」を扱うような心と態度で関わったら、いつもそれを口にしていたら、自分も喜びに満たされ、家庭をもより幸福な場所にできるのではないでしょうか。またまわりの人々に対してもそれができたら…。

 実際には弱いわたしたちにそれは難しいのですが、創造主を信じて、その愛と恵みの中で少しづつ可能になると思います。「ブランド・ニュー」のこの年、惰性に流される古びた生き方ではなく、日々新品の輝きを増すような歩みを求めて励んでいけたらと願っています。「あなたを形造った方、主はこう言われる。わたしの目には、あなたは高価で尊い。」(イザヤ43・1~4より)


春が来た!

 四季の区別があまりはっきりしないこのカリフォルニアでも「春が来た!」と思わされるものを、いくつも見つけることができる季節になりました。日本のように四季の区別が明確な国では、春のおとずれの実感がさらに強くなると思いますが…。

 「春一番」ということばをご存知ですね。春のはじめに吹く強い風のことですが、「春だ!春だぞ。さあ、みんな起きなさい。」と風が大声で叫んで回っているような、そんな様を思わされます。春一番が吹いた後、自然界は急速に春の色彩を濃くしていきます。

 日本で春に咲く花の代表に梅と桜がありますが、梅は桜よりも先に咲きます。梅の花は何か脇役のような、控えめで、きまじめな姿を感じさせますが、桜の花は、やはり、主役、華麗ですね。着飾った大勢の踊り手が舞台の上に現われて、巧みな舞いをしているような華やかさと優雅さがあります。

 その桜の花が、日本のどこで競演をはじめたかを告げる言葉を「桜前線」と言いますね。日本は南から北へと順番に春になっていくのですが、それと並んで、桜の開花も北上を続けていきます。細長い国土の日本ならではの春の絵図を思わせる、ステキな言葉だと思います。

「春」は、ほんとうにすばらしい、美しい季節です。「春というと何を連想しますか?」という質問に出た答えは「命、光、希望、出発、喜び、活力、暖かさ、新しさ」等でした。人を生かすものがいっぱいですね。英語では Spring と言うように、春には生命の力と輝きが泉のように吹き出てくるのを見ます。

 生命の主、神の御子イエスさまが、死をうちやぶって復活されたイースター」が春にあるというのは、そんな大自然の姿を写して、意義深く、象徴的だと思います。死は冷たく、暗く、絶望と悲惨、圧迫と否定、停止、無力等ですが、イエスさまは、そんな死の世界にあった私たちの魂を、罪によって死んでいたものを、ご自分の命をもって救い出してくださったと、聖書は告げています。春が来ると自然が冬の圧力から解放されて新しい生命の芽を出すように、イエス・キリストを信じる者も、これまで自分を痛めつけて来た罪と闇の力から解放されて、真に新しい生き方ができるようになるのです。

 春の自然には造り主なる神の恵みが満ちていますが、神は、イエスさまを信じる者の心と人生にも、春の輝きのような喜びを注いで下さいます。新しくめぐり来たこの春に、多くの人が救い主なるイエスさまを信じて、新しい生き方をすることができたら幸いと存じます。


アメリカで見聞きしたこと

その一

 三才ぐらいの男の子が、フロントヤードで庭仕事をしていた私に、近づいて来て言った。「この前は僕のことを、心配してくれてありがとう。」実はこの男の子は、数日前、私の家の側で自転車で転んだので、私が「大丈夫?」と、声をかけたのを覚えていたのだった。私はとてもうれしくなって、「どういたしまして、あなたは、すばらしいボーイだね。人にちゃんとお礼が言えるなんて…」と感心しながら言った。その子は、家庭でそのように良いしつけをされているにちがいないと思った。そして、私たちお互いも、ささいな事でも、「ありがとう」や、「ごめんなさい」なども、ちゃんと言葉にして伝えることがとても大切なんだと、改めて教えられた。この小さな坊やの、小さな言葉でも、私の心は一日中温まった。

その二

 ある時、モールの駐車場で、一人のご婦人に声を掛けられた。見ず知らずの人だったが、「あなたのバッグ、とってもすてきね。自分で作ったんですか?」と、言われた。私は「ありがとう」と言ってから、「これは、私の友人が作ってくれたんだけど、彼女は数年前、病気で亡くなったんです」と、私はしばし、この見知らぬ人と下手な英語で立ち話をした。そのバッグというのは、どこにでもある手頃な大きさの白い布袋なのだが、これに、赤い布で作った大きな花飾りがついているので、それを褒めてくれたのだった。これを作ったのは、日本人と結婚していたアメリカ人で、彼女と私は、協力しあって一緒に賛美の奉仕をしていたので親しかった。音楽もできるし、手芸もできるし、多才な人だったが、何をするにも心を込めて、熱心に工夫して、神の教会にも、人の心にも麗しい灯をともそうと、自ら進んで励む人だった。誠実で、謙虚なこの人は、難病に苦しみながら、なお神と人への愛の労を惜しまずに働いていたが、しばらくして天に召されて行った。私は、彼女の作品が見知らぬ人に褒められた事が、この上なくうれしかった。

その三

 ある店でのことだが、五、六才ぐらいの子供を連れた若いお母さんがいた。どこでもよく見る光景なのだが、子供は陳列してある商品に触って、それをいじっていた。母親は、「止めなさいね」と注意していた。言われたすぐは止めるが、間もなくまた、子供は同じ事を始める。「止めなさいね」と、母親が言うと子供は止める。それからまたそれをする。そんなことをややしばらく繰り返していたが、ついに母親が、子供を引き寄せて、「どうしてそれをすることが良くない事」なのかを、丁寧に、熱心に話してきかせたので、子供はほんとうにそれを止めたのが見えた。すると母親はすかさず「ありがとう」と、子供に心をこめて言ったのだ。子供はうれしそうに顔をほころばせて母親の目を見ていた。子供が、公共の場で悪さをしても、知らん顔をしているか、逆に、聞くのが辛くなるような罵声を子供に浴びせて、一方的に叱り飛ばすかするような親も、少なくないのを見るのだが、これは実にいい、美しい光景だった。私は、こんな母親に育てられる子供は、きっと、賢い良い社会人になるだろうと思って心が和んだ。

その四

 これも近所での事だが、私が、クリスマスプレゼントにいただいた、少し派手で、しゃれた感じのジャケットを着ていたら、「まあ、なんてステキなんでしょう。とてもあなたに似合うし、私は、あなたがそれを着ているのを見て、ハッピーに思うわ。」と言ってくれた人がいた。そこにいた何人もの人がそれに笑顔で頷いてくれていた。これはお世辞などではなく、ほんとに言ってくれたのがわかった。

 この他にも、私はたいしたことでなくても、アメリカ人の方々から、多くの褒め言葉をいただいてきた。アメリカ人は実に積極的に、十分に、きれいな暖かい笑顔で人を褒めることが多い。アメリカにも、人種差別や、いい加減な所や、色々良くない面も多々あるが、しかし、個人的には、人の心に、他への暖かさが、まだまだ豊かにあるのを感じさせてくれる場面が多い。日本人の場合は、他を褒めるよりも、けなしたり、咎めたりの言葉がはなはだ多いのを感じる。同じ事に対しても、褒めてくれるのは、大抵アメリカ人か、英語圏の人々だ。

 日本人の間で褒められるのは、有名人か、有力な人々だけのようだが、これはとても残念なことだと思う。社会の中の弱い人や、欠けのある人や、目立たない人の中にも、とてもすばらしい、褒められるべきものは、いっぱいあるのだから、それらの良い点に心を留めて、お互いにもっと、暖かい褒め言葉を、多くするようにできたら、どんなにいいだろうかと思う。

その五

 以前私は、車があまり通らない道に車を駐めて、それをいいことに、ドアを閉めるのが遅くなってしまったことがあった。すると、一人の白人のいわゆるおじさんが、やって来て、「危ないじゃないか。もしこのドアに他の車が接触でもしたら、その車の人も、あんたも怪我するんだぞ。また、人が通るにもひどく危険だ。子供だって通るんだぞ。こんな事は二度とするな」とひどい剣幕で言った。私は、「すみません。すみません」と平謝りに謝ったが、後で何か清々しい気持ちになった。自分さえよければ式の、無関心が往来する世で、人の事、世の事を本気で案じて、本気で怒る人が居るのは、いい世だと思った。

その六

 私たちが、交通事故に逢った時のこと、赤信号を無視して突っ込んできた車に、ぶつけられたのだが、この時、何人もの人々が車を止めて近寄ってきて、「私はこの事故を見ていたからね。必要だったら証人になってあげるから、ここに連絡していいよ」と、名刺を渡してくれた。この事の他にも、実にうれしい事や、心打たれる事にいくつも出会ったけれど、アメリカには、覗き見的な干渉でなく、人の事に心から関心をもってくれる人が、少なくないのを知らされる事が多い。それを実際、言葉や、行動で伝えてくれるのは、とてもすばらしいことだと思う。人への愛の配慮が至る所にある。

 また、アメリカでは、「人間は間違いをするもの」という認識のもとにか、チェック& バランスのシステムが機能しているし、論理や、ルールはきちんと通ることも少なくない。「赤信号、みんなで渡れば…」式の集団の理は、アメリカでまかり通ることはまずない。白は白、黒は黒として通用させるのだが、しかしそれは、単にすべて「その理論でいくべき」といった冷やかなものでなく、話し合いの余地は十分にあり、事と次第によっては、おおめに見てくれたり、黒でも白として許してくれる、そんな寛容さも結構あちこちにあるので、「サンキュウ」で済んでしまったりする。だから、この国に住んでいると、まだまだ人の心は生きていると感じさせてくれるものに出会えるので、私も、そのよいものに見習いたいと思っている。


人間関係について(1)

 人生相談等に寄せられる質問の中で、一番多いのが、「人間関係」に関することだと言われています。誰もが「難しい」と口をそろえる、この古くて新しい問題は、人の世が続く限り、なくなることはないと思います。

 私は以前、「相談に答える」仕事をしていたのですが、その時も相談ごとの大半がやはり「人間関係」でした。これは答える方も難しくて、困ってしまうことがしばしばでした。

 「人間関係」の問題は世界共通だと思いますが、特に日本人のように、人と人との間に適当な距離を置くことが、うまくできないような社会では、この問題はお互いに大きな重荷になってしまうようです。家庭の、職場の、地域の、各種グループの人間関係に悩み、傷つき、疲れ果てている人の何と多いことでしょうか。

 また、昔と違って、子どもの頃から「人間関係のあり方」を肌で覚える機会がめっきり減っている現代ではなおのこと、この問題は深刻になって来ています。「人間関係の崩壊」ということも叫ばれています。「病める社会」と言われる要因の一つは「病める人間関係」ということかもしれません。

 教会も人の集まりですから、「人間関係」の問題は避けて通れないのですが、しかし、これは何も特別なことではなく、自然なことなのです。自由な人の集まりである教会には種々な人がいて、種々な意見や好みの違いもあり、誤解や行き違いも生じますし、またいろいろな面における人間の弱さや不完全さも包含しているわけですから、ときどき問題が生じるのは当然のことと言えると思います。(聖書もそれをありのままに記しています。)

 リーダーや組織への盲従を強いられるカルトのような宗教や思想のグループでは、人間関係の軋轢(あつれき)は、抹殺されるので、表面には現われませんが、それこそ異常なグループの特徴と言えると思います。

 それなら、教会のように自由な人の集まりの中には問題が生じるのは当然だから、「そのままで構わない」というのでしょうか。決してそうではなく、聖書には「人間関係をよりよくする」ための知恵や勧告、戒めがたくさん記されていて、それがとても分かりやすく具体的に教えられています。

 「人間関係をよりよくする」ための鍵はもちろん「愛」ですが、聖書は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と教えています。これは、人が神を愛するという最高の生き方に次ぐ、大切な教えですが、誰もが持っている自己愛―自分を大事に思うこと―と、それと同じ気持ちで他を愛し、大切に思う心で関わりなさいということです。

 実行は難しいことが多いのですが、しかし、人間は自分も他人も神の前に尊い存在だということを心に留めて励むなら、自分をも他人をも生かす幸いな人との関わりへと少しずつ進んでゆけると思います。

 自他共に幸いにする、愛の生き方の何であるかを聖書を開いて見出してくださいますように。


人間関係について(2)

 「受けるよりは与える方が幸いである」との聖書の教えは、物のやりとりということだけでなく、人間関係全般において大切なことを教えていると思います。

 人に「ああして欲しい、こうして欲しい」と求めるよりも自分が人にしてあげることを先に考えたら、もっと満ち足りた生き方ができるのではないでしょうか。

 また相手に「変わってほしい」と求める前に「まず自分が変わることを求めて励む」と「相手も変わる」とよく言われることですが、これは親子関係でも夫婦関係でも同僚や友人関係でも事実のようです。経験済みの人も多いかと思いますが、人は相手に求めてばかりいる間は決して満足は得られないということだと思います。

 自分には他に与えるような、役立つようなものは「何もない」と言われる方もありますが、そんなことはないと思います。あなたには、まず、「いい笑顔」があるのではないでしょうか。

 人はあまりに辛いことがあって、落ち込んでいたり、種々な重荷を抱えてそれに潰れそうになっている時もありますから「絶えず笑顔」ということはできません。時には「何でも笑顔でごまかす」というような偽りの笑顔で、かえって大切なものを「濁す」ような場合もあるかもしれませんが、普通はやはり笑顔には人を生かす力があると思います。

 やさしい笑顔で元気にあいさつされただけで疲れが癒され、心が温まって生きる力や希望を得る人だって少なくないのではないでしょうか。

 だいぶ前のことですが、私たち家族が当時住んでいた街の近くで、一人暮しの老人が同じアパートに住む小学生数人を撃ち殺して自殺するという痛ましい事件が起きました。老人が犯行に及んだ理由が「その子供たちから毎日悪態をつかれ、バカにされていたから…」というのでしたが、私はこの事件が忘れられませんでした。

 その一人暮しの淋しい老人に誰か一人でも優しい笑顔で声をかけてあげる人がいたら、あんなことにはならなかったのではないか、そんな人がひとりもいなかったのだろうかとひどく心が痛みました。心が寒い時、やりきれないほど辛い思いを抱えている時、生きることに疲れ果てているような時、誰かの優しい笑顔に会いたい、一言の温かい言葉が欲しい、と心ひそかに願っている人は案外多いのではないかと思います。

 日本でのことですが、ある時、駅の公衆トイレの洗面所にそこの掃除婦と思われる中年の婦人が入って来ました。その人はプリプリと怒ったような態度で「暑い、暑い」と声を張り上げて、水道の蛇口を乱暴にひねり、水をじゃんじゃん出しました。水しぶきをかけられた人々はみな顔をしかめていましたが、私はふと「今日は本当に暑いですね。お仕事大変ですね」と声をかけてみました。すると、その婦人は急に柔らかい表情になて「いえ、あら、どうも」と急いで蛇口をしめて、「私ら、仕事ですから。どうも、どうも、ね」と嬉しそうに頭を下げて、入ってきた時とは違う、静かな態度で去って行きました。

 行きずりの人がかけた一言のいたわりの言葉が、あたりかまわず怒りをあらわにしたいほどやり切れないものを胸に抱えていた一人の人を温め、その怒りを静める効果があるとすれば、まして近しい関係の人々からのそれは、どんなに大きく人の心を生かし、人間関係に美しいものを産み出すことでしょうか。

 心の灯が消えてしまっている人に灯を貸してあげることが、ひょっとしてその人の、悪の方向へ進んで行こうとする足を食い止める力になるかもしれないのです。私はそう思って、そのことに励むようにしています。

 聖書にあるように世の終りが近いからでしょうか。人の愛が冷えて来ている現実を目の当たりに見ることが多くなりました。自分のことしか考えないで、他人を大切にしない人が増えています。「人と人との心が通じない」「互いに心を通わすように励む人も少なくなっている」と感じるのは、私だけではないのではないかと思います。

 積極志向が叫ばれる現代の社会ですが、人に優しい笑顔、ちょっとした温かい言葉を与えるということは、人間関係における誰にでもできる積極的な生き方の大切な部分ではないかと思います。

 笑顔には人を生かす力があります。温かい言葉は人の心を輝かせます。それを受けるよりも、まず与える人になりたいものだと願っています。


人間関係について(3)

 「だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。」(ヤコブ1・19

 人間関係に関する聖書の教えは具体的で明確なものが多いのですから、解説を聞くよりも、守り行うことが大切なのですが、人間にはみんな欠けがあるので、聖書の大切な教えも十分には守り行えないのが現実だと思います。しかし、神は、聖書のことばを守り行なおうと励む者を助けて下さいますので、そのように生きる人は、自分の人生を豊かなものにし、人間関係をも、より良いものにすることができるようになると思います。

 ただ、人間関係には相手があるわけですから、どんなに努力しても、自分の努力だけではどうしようもないことがあるのも事実です。それが、単に連絡不足、ミス・コミュニケーション、考え方、意見のちがい、勘違いといった外側の問題なら、(それを改善すればいいので)その対応や解決も単純に済むと思いますが、時には、相手の「人格の問題」といった難題に直面することもあるわけです。

 最近、と言っても、もうだいぶ前からですが、本屋に行くと「困った人に困らせられない法」、「すぐに解決!困った人々」、「平気でうそをつく人々」、「困った隣人」等々、思わず苦笑したくなるような、おもしろいタイトルの本が売られているのを見ます。こうした本は、相手の「人格の問題」に関する人間関係に悩む時にどうするか、その対応の知恵や方法に示唆を与えるもののようです。おそらく著者のにがい体験や見聞から書かれたものだと思いますが、そういうことに悩まされている人が結構多いので、こうした本が多く出版されるようになったのだと思います。

 特に相手を信頼して、ひたすら注いだ「誠意や善意が踏みにじられた…」、人を大切にして来たことが「利用されただけだった…」と思うような事態に直面した時の、人間のショックと悲痛は大変深刻なものになるのではないかと思います。実際、そのために心の病気になったり、死を選んでしまうようなケースもあるのです。

 人間関係のことでひどく悩む時、一つの躓きが人生すべての失敗であるかのような絶望感にみまわれることがあります。他の人のことを気遣い、人間関係を良いものにしようと真剣に努力するような良心的な(誠実な)人ほど、「うまく行かなかった」結果に苦しんで、人間不信に陥ったり、ひどく否定的な態度をとったり、人との関わりを避けようとしてしまうのではないかと思います。

 しかし、人生のすべての事柄と同様に、人間関係の問題も、避けること、逃げることによっては何一つ解決しないのです。たとえ現実に人との関わりを避けて生きていたとしても、自分の心に生じた「人間関係」の躓きそのものは、解決のないまま、自分の内側に残ってしまうのですから、それに全く悩まされないでいることはできないと、私は自分の体験からも知りました。

 「逃げること」に解決を求めてしまうと、一生、ただ「逃げ道を探す」だけの、実のない人生を歩むことになってしまいます。人生には逃げ出したくなるような事柄がいやというほどあるのですから…。人生は、そういうこととの闘いなのかもしれません。

 人間関係の躓きや傷は、また「人間関係の中で癒される」と言われますが、それは事実です。人との関わりで受けた傷は、人の心の、人の声の、人の手の助けを借りて、次第に癒されていくのですから、悩んでいる時は、やはり誰かに話すことが必要だと思います。

 世には他人の心や痛みなど「気にもかけない」心無い人々もいますが、しかし、みんながそんな人ばかりではないので、これはとても幸いなことです。親身になって、あなたの苦悩や悲痛に耳を傾け、心を砕いてくれる、心優しい人々も世にいるのです。

 神の愛をいただいている人々の集まる教会には、あなたを生かし、温めてくれる良い交わりがきっと見つかると思いますから、どうぞ、その交わりに加わって下さるようお勧めします。

 どんな場所、どんな場合においても、人間関係の問題は小さくはないので、人はそれに深く悩むのですが、しかし、それはまた、私たちの人格を成長させてくれる貴重な訓練にもなるのです。

 「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す。」(ローマ5・3〜4)

 共に忍耐しながら、この希望を自分のものできるように励んでいきたいと願っています。


人間関係について(4)

 だいぶ前、日本にいた時のことですが、「近所の犬の鳴き声がうるさくて…」といった話を聞くと、「それはイーヌのモンダイではない」などと言い、「あそこのラーメンはまずい」とか「あそこの寿司はおいしい」とか同僚が食べ物の話をするのを聞くと「それは、クチのナーカのモンダイです」と得意顔で言ったりする、日本語がかなりできる婦人宣教師(アメリカ人)がいました。

 この方が人間関係の問題を耳にすると「それはゴマン(傲慢)のモンダイです」と真剣な顔で言っていたのを思い出します。そして、しょっちゅうモンダイを起こす同僚の一人を「ミス・モンダイ」と呼んでいました。

 この宣教師は人間関係のトラブルの多くが、人の高ぶりに起因していることを聖書のみことばを思い浮かべながら、考えていたのではないかと思います。

 聖書には「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」(ローマ1210より)とありますが、現実は逆の場合が多いようです。「人より自分の方が善い。自分の方が勝っている」という自負心は、人の思いの、奥の方まで流れていて、何かある度にそれが言動に表れてくるのではないかと思います。(人より勝りたいためにあくせくし、平安や休息を失い、人間関係をもとげとげしいものにしている有様を私たちはあちこちで見ています。)

 人には神によって与えられた、それぞれの分があり、それぞれ違った能力や立場があって、それには基本的に優劣の差などないはずですが、人はわずかでも、人より自分が勝っているように見える部分があると誇り高ぶって、他を見下げたり、他人を押し退けてまで、自分の分を増やそうと卑しい手を使ったりするのです。その姿は醜いですし、相手を傷つけ、秩序を乱し、人間関係の混乱をも招くのですが、高ぶった心のままだと、そのことに気づかないのです。

 「高慢の臭いがする」と言われますが、まわりの人は気づいていて、密かに鼻をつまんでいるのに本人は平気でいることがあります。「口臭は自分には臭わない」わけですが、人の高ぶりも自分には臭わないので厄介なのかもしれません。

 しかし、「わざとらしい謙遜」ということもありますし、「謙遜に見える傲慢」などと言われたりするように、時に傲慢の正体は複雑で変装したりもするのですが、でもこれは、そのうち必ず人間関係の中に悪い実を生じさせますので、分かって来るのです。繰り返しへりくだることを勧告している聖書のみことばに自分を照らしながら、「へりくだる恵み」を求めて励んでいきたと思います。

 こんな話があります。ある家族の一人が、うっかり水を入れたやかんを床に置いたためそれに気づかなかった他の一人が、それに躓いて水をこぼしてしまったそうです。そこで、やかんを置いた方が「すみません。そんな所にやかんを置いた私の不注意でした」とすぐに謝りました。するとやかんに躓いた方が「いや、足元に気をつけなかった私の方が悪いんだ」と言い、「いや、私の方が」「いや、私の方が」とお詫びの競争(?)をしあって、最後には明るい笑い声が家中に響いたそうです。これは、それまでいがみ合い、咎めあってばかりいた嫁と姑がクリスチャンになってから生まれた美しい実話だということです。

 お互いにへりくだることで避けられる人間関係のトラブルがいっぱいあると思いますし、へりくだる心と態度は、あらゆる場合、あらゆる場所で人間関係を心地よいものにすると思います。

 人に注意されたり、忠告されたときも、「何をうるさい」「自分は間違っていない」と高ぶって、心をかたくなにしてしまうとその人の人格(品性)の成長は、そこでストップされてしまいますし、大切なものを自分のものにするチャンスを自分でフイにしてしまいます。

 誠意をもって忠告してくれる人の言葉は、たとえその時は痛くても、謙虚に聞き入れることで、多くの貴重なものを獲得できるのです。そうして忠告した人と、された人の関係はとてもうるわしい幸いなものになることでしょう。

 あの人には「言っても無駄だ」「人の言うことに耳を貸そうとしない」愚かで困った人と思われてしまうよりも、あの人は「話せばわかる人」「聞いてくれるので話しやすい人」とまわりから評価される方が、どれだけ幸いなことでしょうか。これは謙虚さがないとできないことですから、心して励んでいきたいと思います。

 高ぶった心はまた、愛のない、冷たい態度で人に接することにつながっていきます。へりくだる思いがないために、心に温かさの欠如している人は、他人のささいな間違いや欠点に対して、実に矢のような早さ、鋭さで非難を飛ばします。そういう人間関係が見られる所は実に冷え冷えとしていて、安らぎのない居心地の悪い所になります。「すぐに人をとがめる」というのは人間の悲しい習性だと思いますが、やめることができたら、きっと幸いな人間関係が生まれることでしょう。(もちろん、ミステークはできるだけ無いように励むのは当然ですが。)

 高ぶることは、何の努力も修練もなくても誰にでも簡単にできますが、いつもへりくだることは大変難しいと思います。健全な思考が必要ですし、何よりも神の恵みと助けが必要だと思います。まず神の前にへりくだって、卑しい罪人の私たちを愛して、命まで投げ出してくださったイエス様の愛のお姿、低くなって、人の僕(しもべ)となられたイエス様の謙遜を見ることから、真の謙遜を学ぶことに励んでいきたいと思います。

 あの婦人宣教師ではありませんが、「ミス・モンダイ」だけでなく、「ミスター・モンダイ」、「ミセス・モンダイ」も結構居るような、難儀な人の世にあっても、神の愛をいただいて、お互いを大切にしあう人間関係の育成に励んでいけたらと願わされています。

 「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを与える。」(ぺテロ第一5・5)


人間関係について(5)

 「人間関係は難しい」とこのシリーズの初めに申しましたが、「本当にそうだなぁ」と自分自身、痛感させられています。

 「ああしたらいい、こうあったらいい」などと口で言うのは簡単ですが、実際に問題に直面してみると本当にどうしていいか分からないことがたくさんあります。ですから「人間関係について」述べてみても「仕方がないか」と思ったりします。それでも少しは何かのお役に立つだろうか…と考えて書いてきました。

 何度か申しましたように「自分を愛するように隣人を愛せよ」という聖書の教えをお互いに守ることができるなら、人間関係はきっと素晴らしいものになるだろうと思います。

 人間は誰でも自分を愛しているはずですが、しかし、現代は本当の意味で自分を愛せない、自分を粗末にしている人が増えているように思います。だから他人をも愛せないで、他人を粗末にしてしまうのかもしれません。

 「自分を愛する」というと「自己中心、わがまま、自分のことしか考えない」と受け取られがちですが、実はそうではないのです。聖書の言う意味での「自分を愛する」というのは、神によって生かされている自分の存在を尊ぶ、自分の心と人生を価値あるものとして大切にする、ということなのです。

 人間の価値は存在そのものにあって、外側のものでは計れないのですが、しかし、現代は外側のものが最重要視されています。ですから外側のものを得るのが不得手な者は軽んじられ、粗末にされてしまいます。そうしてみんながいわゆる「強者」になろうと躍起になっています。科学や医学までもが、その本来の役目を越えて、そんなことに手を貸してしまっています。(そういうことに不安や疑問を感じている人は少なくないと思います。)そういう社会では真に「自分を愛する」ことも、「他人を愛する」こともできなくなってしまうのかもしれない、と思わされます。

 ある人が、社会に弱い人やハンディキャップを持っている人がいなくなって、みんなが強くて優秀な人だけになったら、この世は果てしなく奪い合い、傷つけ合うだけの、恐ろしい社会になるのだろうと警告していますが、本当にそうだろうなぁと思いました。人間が弱さや欠けを持っていることはむしろ大切なことで、人は自分の弱さを知ることで、他人を思いやる優しさを持てるようになるのだと思います。

 私は時々「何故この世には病弱な人やハンディキャップを持った人々がいるのか?」と考えるのですが、実はこういう人々が社会に潤いを与え、ギクシャクしがちな人間関係の中和剤になっているのをよく目にします。

 神はいわゆる「健常者」と呼ばれる人々にはできない、特別な使命を「弱者」の人々に与えておられるのかも知れません。それは人間社会にとって非常に大切な使命ではないかと思います。

 互いに弱さや欠点のある者同士がより良く共存していくためには、互いの弱さや欠点を受け容れ合うことが必要になってきます。これは大事なことですが、しかし、注意しなくてはならないのは、「人を受け容れる」ということが何でも彼(か)でも「そのまま許容する」ことではないということです。

 聖路加国際病院の元院長、日野原博士は、「人を生かす拒否もあり、人を殺す許容もある」と言っておられますが、確かにそうだと思いました。しかし、私たちはそういう点で「間違ってしまう」ことが多いのではないでしょうか。本物の愛は、正しい意味での受容がある人間関係に息づく…と思うのですが。

 悲しいことに、人は互いの違いや弱さや罪深さなどの故に、誤解したり、嫌ったり、傷つけあったりしてしまうのですが、それをそのままにしておくと、人間関係は壊れたままになってしまいますので、やはり互いにゆるし合うことが必要になってきます。

 もちろん「ゆるし」もまた難題であり、安易に考えてはならないのですが、しかしこれは人間に不可欠なことです。もし、人をゆるすことができないとしたら、人はその「ゆるせない」枷(かせ)のなかで絶えず、苦痛にさいなまれながら日を過ごすことになります。また、人の世には「ゆるしてもらう」しかないような事柄も生じてきます。「ゆるすこと以外」「ゆるされること以外」どんなにしても解決のない問題が多くあるのです。大小さまざまに…。

 誰もがそういう問題には直面したくないし、そんな事柄は避けたいと願っていますが、避けられないのが人の世です。全く予期もしなかったような問題に悩まされることも多々ある世に私たちは生きています。そんな事柄の中で人は、人生の悲しみや辛さを経験するのですが、しかし、その悲しみや痛みを味わう中で、人は内側に何か泉のようなものを持つことができるのではないかと思います。(うまく言えませんが。)

 そういう時に私たちは、人をゆるすために「悲しみの人」(イザヤ53章)となってくださったイエスさまの愛が身に染みてわかるような気がします。実は、私たちは神の恵みの中でこそ「ゆるし、ゆるされる」幸いに生きる者となれるのです。

 人間はそれぞれに好みも価値観も生活習慣も違っていますから、それがお互いにぶつかり合ったり、噛み合わなかったりするのは当然と言えると思います。家族や友人のような親しい間柄でも、相手の「あの点は好きではない、受け容れられない」と思えることは一つや二つはあると思います。(十や二十の人も…?)もちろんそれは相手にも、こちらに対してあるわけです。しかし、ある人たちは年中、相手ばかり咎めていますから、その関係はいつまでたっても建設的にはならないのです。向こうもこちらの欠点や嫌な面を忍んでくれているのだから、こちらも相手のそれを忍んであげる必要があると思います。つまりは「お互いさま」ということです。

 ある婦人が、ある雑誌の中で、「私は歯磨きのチューブを真ん中からしぼるが、夫は下からしぼるべきだと言って、いつも意見が合わない」と言っていました。これなどは、どこにでもよくある女性と男性の違いのようです。

 どんなことにおいても人間にはいろいろ考え方、やり方の違いがありますが、その中には案外、どうでもいいようなささいな事も多いようです。しかし、そのささいな事が、大きな問題に発展してしまうことも少なくないのです。その原因は、お互いに「自分のやり方が一番で、間違っていない」と主張してゆずらなかったり、それを相手に押し付けたり、一方的な態度だったりするところにあると思います。

 そういえば、以前、日本でラーメンの銘柄のことで争った夫婦の殺人事件がありました。「なんでそんな事で?」とみんなが首を傾げたのですが、争いや問題の火種は、最初は何でもないような小さなことが多いようです。小さいうちに消すように気をつけることが肝心だと教えられますが、ささいなことの中でもお互いに譲り合い、忍び合い、理解し合って、歩み寄るように努めていけば良い関係が持続できるのではないかと思います。誠実さや善意、謙遜などは、人間関係をよりよくするために不可欠のことなのですが、しかしこちらがどんなに、そのような態度で励んでも、応えてくれない相手がいるというのも事実です。そんな時、口にだせない、うまく表現できないような苦悩を覚えるのですが、そのような時も、やはり神の助け、神の理解を仰ぐことで励まされると思います。

 そうして、過ぎたことにはなるべくこだわらないようにして、前向きに進んでいけたら、いろんな失敗もプラスになると思います。「互いに愛し合いなさい」と聖書は繰り返し教えています。いつの時代にもどんな所でも、愛は美しいものであり、力あるものであり、生産的なものなのですが、しかし、しばしば愛の誤用や乱用がみられるのは残念なことです。やはり、聖書を開いて、真実な愛の何であるかを学びながら本当に心から「互いに愛し合う」人間関係を築いてゆけるよう努力していきたいものだと思います。

 人間関係の良否を大きく左右する、言葉の遣い方のこととか、人間の内側に潜んでいる自我の処理の問題とか、複雑な現代社会に増え続ける人の心の病とどう関わっていくか等々、人間関係の問題、課題はまだまだ、数限りなくあると思いますし、とりあげたらきりがないと思います。

 人間関係はいつも難しいし、それは自動的に良くなることは決してないのだということを心に留めて、絶えず努力し、励んでいかなくてはならないと思います。それを覚えて頂けますなら、私の書いたことも何かの役に立ったかもしれないと思っています。

 人はみな神に造られ、神に愛されている尊い存在なのですから、自分をも、他人をも大切にしながら、与えられた人生を感謝し、喜ぶことができたらと、願わされています。

 「私たちの助けは天地を造られた主の御名にある。」(詩篇124・8)