しかし勇気を

 イエス様は弟子たちに「この世では悩みがある.しかし勇気をだしなさい」(ヨハネ1633)と言われました。またパウロも「この幕屋にいる私たちは、重荷を負って苦しみもだえている」(コリント第二5・4)と言っています。

 「私はクリスチャンですから、悩みなんて全くありません。すべて感謝 感謝 いつもハレルヤです。」という人がいますが、私はそれを聞いて「そんなことないなあ」と思います。自分も、重荷や悩みで押しつぶされそうになったりすることがありますし、多くの信仰者の悩みや苦しみを聞いて来ました。相談を受けて、共に涙を流しながら祈りあったことも数えきれないほどあります。

 それは信仰不足の故、という事もあるかもしれませんが、しかしそれよりむしろ、真面目な信仰者は、この歪んだ闇の世において、まっすぐに神に従おうと努めるからこそ、自分の弱さ、この世の悪、サタンの攻撃 などの中で苦しみ悩むのだと思います。ごまかすことなく、自分や問題と向き合って生きようとする時、人は悩むのだと思います。

 また愛に生きようとしても十分にはできない、たとえ自分は精一杯の事をしたとしても、相手には通じなかった。誠心誠意励んでみたけど、芳しい結果は得られなかった。自分の足りなさのせいでもあり、相手の問題のせいでもあり、時には双方のそれでもない、もっとなにかよくわからない必然のようなものによることもあるので、苦悩は増すようです。

 悩むのは、人間として当然ですし、この罪の世で、肉をまとって生きる以上、悩まないほうがおかしいと、言えないでしょうか。良心的な人ほど、小さな自分の非にも、自責にかられて苦しむことも多いと思います。

 しかし信仰者は、その悩みに押しつぶされてダメになってしまうことがないので、幸いです。絶えず主に頼り、祈って、みことばに励まされ教えられ、導かれて、苦悩や問題と闘いながらも、希望と力を持って前進できるのです。信仰者の喜びは、罪赦された喜び、神に愛されている喜び、神との交わりの喜び、天のものに触れて心が満たされる喜び、主を知る喜び、みことばを開いて真理を求め、発見する喜びなどなどです。この世のものとは違う喜びです。

 主は、信仰も愛も忍耐も、あらゆる面で足りない私たちと、何時も共にいて助けてくださいます。

 悩む信仰者は、イエス様の十字架のお苦しみを心に刻み、主の側近く歩む人だと思います。(ヘブル2・18、4・1416


神の知恵 神のみ業

聖書に書いてあるとおり、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちのために備えられたのである。(コリント第一2・9)

 神が人を救うために備えられたみ業は、人が考えも及ばなかったこと、神が人となって地に降り、人として生きて、極悪人と同じ刑罰を受け、十字架の上で命を落とす、というもの。それが人の罪を赦し、生ける真の神との交わりを得させ、永遠の命を与え、この世においても人を闇と絶望と無力から救い、信じた者に平安と、希望と深い充足と、確かな人生を与えることなど、この十字架の福音を聞くまでは知るよしもなかった。十字架なんて、考えたこともなかった。(これは尊い神秘であり、神の奥義だから)

 優れた書物には、大事なこと、良いこと、教えられること、考えさせられること、が書いてあるだろうと誰でも考えるし、その予想はたいていあたっている。

 しかし聖書には、読む前には予想もしなかったことが書いてある。だから多くの人は、聖書に書いてあることに魂消たり、反発したり、つまずいたりする。

 生まれつきの心のままで聖書を読むと、たいていの人は「何だこれは…」と、顔をしかめてページを閉じてしまう。そうして折角の聖書の光は隠され、聖書の中に輝いている、愛の神さまからの、比類なき救いの宝を手にできないで終わる。

 人がまず、自分の考えを心から抜いて、まっすぐ聖書に向きあって読みつづける時、人はものすごいものを見る。知る。そして心が真理に捕らえられ、深く感動し、信仰が湧き、神を見出し、神の大きな愛を受けて、消えることのない光の中に生きるようになる。聖書が、その人に閉じたままの時には、決して得られなかった真の幸いを手にして、価値ある人生を歩めるようになる。それを励まし、導いてくださるのは聖霊さまだと聖書に書いてある。これも聖書に真摯に向かう者にに対する、神の恵みのみ業だ。

えッほんとうですかと
びっくりする
聖書に見る神のみ業
その特別な愛
わかった時の喜び
心の満たし
信じる者の人生に
湧きつづける力と希望
聖書をおし抱いて
神にすがる者すべてに

失望せずに祈る

また、イエスは失望せずに常に祈るべきことを、人々に譬えで教えられた。(ルカ18・1)

 祈ることには忍耐が要る、祈りはある意味では苦しい戦いでもある、ということを熱心に祈っている人は、みな感じていると思う。

 自分のことでも、他の人たちのことでも、祈っても、祈っても一向に事態は好転しないし、問題の解決も得られないまま、月日が過ぎ去っていく。そういう状況が長く続くと「祈ってもだめなのかなあ」と疑いと失望に捕らわれてしまうことがある。しかし「祈っても無駄だ」ということばは聖書のどこにもない。

 ただ詩篇の中にも「主よ いつまでなのですか」「なにゆえ遠く離れて立つのですか」「主よ 黙っていないでください」といった、祈る者の「もう忍耐の限界です」といった叫びが見られる。

 いつまでもいつまでも同じ問題に悩まされる、という事は、人間にとって、大きな嵐に見舞われる以上に辛いことだという事を、多くの人が経験しているのではないかと思う。そのような中で、信仰も心も弱い私たちは、失望し「万事休す」といった心境に陥ってしまうのだ。イエスさまは、そんな私たちの弱さを理解してくださって、失望しないで祈るようにと、譬え話をもって励ましてくださった。

 聖書は他の箇所でも、私たちが信じて祈り続け、神を待ち望ようにと教えている。「イエスを信じる者は失望に終わることがない」(ローマ1011

 聖書のこの神、人となられた神のみ子イエスさま、私たちの贖いを成し遂げられた、生きておられる愛の神を信じて、ひたすら信じ続けて祈る者には、必ず光が与えられる。道が開かれる。コリント第一1013のみことばのとおりに神は真実だ。

 苦しい現実のただ中で、祈り続けている者のことを神は覚えてくださっている。もう少しの辛抱だ。あきらめないで、失望しないで祈り続けよう。


ザアカイ(ルカ一九章より)

 ザアカイは、イエス様が自分の住んでいる町に来た、と聞いてなんとか一目見たいと思った。その方は普通の人とは違うことを語り、違うことをなさると聞いた。一体どんなお姿で、どんなお顔をしておられるだろうか。どんなお声でどんな事をお語りになるのだろうか。エリコのこの町でも、噂に聞いているような特別なことをなさるだろうか。近くまで来ておられるという、イエスという方を何とかこの目で見てみたい、この機会を逃したくない、ザアカイは切なる願いを胸に秘めて、群衆が群がって騒いでいる方へと歩を早めた。

 ザアカイは魂の渇きを覚えていた。金持ちで何不自由のない暮らしをしていたが、心は満たされないでいた。だから何としてもイエス様を見たかった。ひと目でもイエス様を見たら、自分の暗い心に光が射すかもしれないと考えていたからだ。

 背の低いザアカイは、人の後ろからは何も見えないので、イエス様が見える所に出たいと願って、必死に群衆を掻き分けて前に出ようとしたが、誰もザアカイに道を譲ってくれなかった。「ぐずぐずしていたら、もうあの方は通りすぎてしまう。大変だ。良い方法はないものか」と、ザアカイは焦りながらあちこち見回した。そしてついに見つけた。木だ;「群衆より前の方にある、あの木の上からならあの方が見られるぞ」ザアカイは走って木に昇った。人が見ているかどうかなど考えなかった。ただ「イエスというお方を見たいのだ」ザアカイにはその一念しかなかった。

 木の上から、ザアカイは近づいてくるイエス様と弟子たち一行を見ていた。イエス様は立ち止まって木を見上げた。そして「ザアカイよ。急いで降りて来なさい。きょうはあなたの家に泊まることにしてあるから」と言われた。ザアカイは一瞬耳を疑った。「えっ まさか」しかしザアカイはそれがイエス様のお声だと知って、飛び上がらんばかりに喜んで、転げ落ちるように木から降りて「どうぞどうぞこちらです」とイエス様と弟子たちを自分の家に招き入れた。

 イエス様は、ザアカイの心の渇きも、求めも侘しさもすべてを知っておられて、哀れみの目を留めておられた。そしてザアカイを救って下さった。

 ザアカイは、イエス様に会って、初めて本当の愛に触れ、本当の人の心に触れた。本当の喜びと満足を知った。だからザアカイは自分から進んで、「私の財産の半分を貧しい人たちに施し、不正にだまし取ったものは、四倍にして返します」と、主が望んでおられることを申し出たのだ。悔い改めて救われたのだ。

 人は皆、生ける真の神であられるイエス様にお会いして救われる。その深い真の愛によって救われる。昔も今も人の救いはここにある。イエス様なしの人生には本当の喜びも愛も、力も光も、希望も平安もない。地上のものだけでは人の心は満たされないのだ。どんなに恵まれた生活をしていても、神なしの人生は不安定で、虚しく、侘しく、心の空洞は埋められない。これは事実だ。

 ザアカイのように主を求めて真の救い、真の幸いを得よう。いつでも主にお会いできる今の恵みの時代に。その時が過ぎ去ってしまわない前に。


天 国

 天ってなんですか。どこにあるのですか。と質問された方があったので、天は神さまのおられる所です。科学的な答はいろいろあるかも知れませんが、神を求める人は天は神さまのおられる所と、単純に考えたらいいと思います。人は、複雑で難しい科学的理論が解ったとしても、それで自分の人生に意義を見出せるわけではないですから。私たちの心に生きる力も与えませんから。と私は答えました。

 天の最も高い所で(聖書でいう第三の天)神が地に住む私たちを、絶えず愛と慈しみの目で見ておられることがわかったら、信じることができたら、私たちの心と人生に光が差し込んできます。とお伝えしている。

 聖書には、天についての多くの記述があるが、天から来られたイエスさまは、天国のこと、神の国のことを何度も語っておられる。

 地上に天の神の恵みをもたらし、地に住む者たちに天の喜びと祝福を与えるために天から地に降りてきてくださった神のみ子イエスさま。人になって、人の身代わりに十字架のお苦しみをなめて、人に救いの道を備えて下さった救い主イエスさま。この世界に一つだけの真の福音を教会は述べ伝える使命をになっている。だから教会は地のことでなく、この世の教えでなく、天からのものを語らなくてはならない。そうでないと人々に救いを与えられないから。

 天のことは、日常と違い、身近でなく、目に見えないから人々に敬遠されがちだけれど、しかし、神に造られ、神に生かされている人間にとって、天は決して無関係なものではない。最も重要な関係なのだ。天との関わりはどうでもいいと考える人は、自分の人生を粗末にしてしまい、滅びへと向かってしまう。

 聖書が折角知らせてくれている天を、天のものをもっとしっかり学び、見つめ、握りしめて、価値ある、確かな人生を送ろう。


主 よ(祈り)

 主よ。私の心は起こり来るいろんなことでチクチク傷みますが、どうぞ、そのことを考え過ぎないで、主を見上げさせてください。私が自分の辛さにだけ捕らえられて、もっと大切なものを見失わないように助けてください。

 信仰も祈りも愛も努力も注意も不十分な者ですが、どうぞおゆるしくださり、顧みてください。私を見捨てないで、これらの人間としても、クリスチャンとしても必要なものを十分持てるように助けてください。

 私が悲しみに沈む時、私に信仰を与えてください。みことばを読みながらも、祈りながらも、時々心に不安や侘しさがよぎるのは、やはり不信仰のせいかも知れません。

 主よ。私はいろんなものを恐れている者です。心が弱いからであり、信仰も足りないからだと思いますが、私を強めてください。そうしてもっと、いつも主を崇め、ひたすら感謝する生き方ができるようにしてください。

 「いつも喜んでいなさい」とみことばにありますが、それは主の贖いを受けることができたから、できることです。罪赦されていること、神の子とされていること、主が常に私と共にいてくださるので、不安に押しつぶされないで済むこと、どんな時も天の光と希望が消えないこと、イエス様を信じさせていただかなかったら、決して味わうことのできなかった、こんな幸いを与えれれている事に、深く感謝します。

 弱い信仰の足りない者でも、愛していてくださってありがとうございます。


神のみことばによって

私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私をあなたの仰せから迷いでないようにしてください。あなたに罪を犯さないため、私はあなたのことばを心に蓄えました。(詩篇1191011

 神のことばは、常に人を教え、戒め、励まし、悟し、きよめて私たちが、起こり来る様々な事柄によって、自分の心を腐らせたり、卑しいものにしないように守り、導いてくださる。

 もし人がみことばを知らなければ、どんな場合でもそれをしっかり見つめていなければ、人の世の汚れた風や、心ない人々の言動に悩ませてしまうような時、自分の弱さや愚かさや、罪深さが、それに絡まって、心が腐ってしまうようになり、光が見えなくなるだろう。神のみことばを知っている、それを握って生きられるということは、そのような惨めな生き方から守られる、実に幸いな人生だ。ありがたいことだと思う。

 神のことばによって歩む道の他には、このような幸いな人生はないから、恵みによって与えられた、このような幸を心から感謝し、なおもしっかりとみことばを信じ、みことばに従って、主にある価値ある生き方に励んでいこう。


新しい恵み(年のはじめに)

私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。あなたの真実は力強い。(哀歌3・2223

 新しい年があけました。過ぎた一年も、恵みとあわれみに満ちた神さまによって日々支えられてきたことを思わされます。

 思わぬ嵐が吹いて、自分の信仰が烈しくゆさぶられ、風前の灯のような状態になった時もありました。人の世の矛盾に直面して、あれこれ首をかしげているうちに、重苦しい曇り空のように気持ちが落ち込んでしまったこともありました。自分の弱さや、人や事柄に対する読みの甘さ、認識の単純さ故に味わうことになってしまった、人の不誠実や心無さなどを改めて思い知らされて、失望に身を悶えてしまった日々もありました。

 しかしそんな中で、主の恵みと慈しみの大きさ、ご真実の確かさを深く味わいました。また、遠くの、近くの主にある心優しい方々のいろんな形での励まし、慰めにも心生かされました。

 どんなことがあろうと、神さまの愛は、恵みは、ご真実は、お力は変わりないことを知らせていただきました。今までそうしてきたように、どんな時にも祈って、祈って、ひたすらに祈ってそのことを深く体験させていただきました。

 新しい年も、日毎に豊かに注がれている主の恵みに、更に目を留め、心を留めて、一層み側近くに歩ませていただきたいと願っています。そのためにも絶えず自分の心を点検し、きよめていただき、主の十字架から流れる天的な美しいものを見上げて歩みゆくように励みたいと願っています。

 新年の挨拶をする時期が終わっても、主の恵みは信仰者一人ひとりに、日々新しく注がれ続けます。新しい年を迎えても、この世のものは間もなく過ぎ去っていき、古びていき、変わっていきますが、主のみことばは、主を見上げるたびに新しく信仰者を満たします。常に変わることのない、しかし常に新しく輝く光で心と人生を照らし続けてくれます。この道に生きる幸いを、今年もいっそう深く味わいたいと思います。


ありのままということ

 「ありのまま」ということばがもてはやされ、そんな意味の歌が流行って、大いに受けている、と聞く。

 「ありのまま」ということばは、気張らなくていいよ、自然体でいいよ、無理しないで、君のそのまんまで振る舞っていいよ、それが一番いいのだ、という人間の自由への謳歌かも知れないが、下手すると「わがまま勝手に振る舞って構わない、したいようにしていいのだ」ということになり兼ねないから、要注意だと思う。

 人間は、原罪と言われるように、生まれつき罪の性質、悪に傾きやすい性向を持っている。だから、何の規正も是正も訓練もなかったら、善よりも悪をなしてしまうことが多いと思う。人は子供の時からきちんとしつけされることによって、事の良否、白黒を見極め、社会人として通用する生き方を身につけるのだ。

 クリスチャンが「ありのまま」と言う時は、神の前に包み隠さず、自分のありのままの姿で出て、罪の赦しと聖めを求めなさい、ということであって、悔い改めなくてもいい、きよめられなくてもいい、反省したり悩んだりしないで、そのまんま、罪深いまんま、自我の思いのまま、古い性質のそのまままで歩んでいい、ということでは決してないはずだ。

 人間の自己本位が良とされる時代に、ともすればクリスチャンもそれに習うように教えられたりすることがあるようだが、それは決して聖書の教えではない。人間は、自分の好きなように振る舞って、正しい生き方が出きるほど立派ではない。必ず間違ってしまう。神を知らなかった時と変わらない、虚しい生き方になってしまうからとても残念なことだ。

 聖書は、信仰者が神の前に、絶えず悔い改めときよめと霊的な成長を求めて励むようにと教えている、聖書はいかなる時代でも変わることのない真理だ。世の風潮に伴って真理が変わることはない。聖書の教えは聞き従うことで神の祝福を得、確かな人生の力となる。


口の言葉が

わが岩、わがあがないぬしなる主よ
どうか、私の口の言葉と、心の思いが
あなたの前に喜ばれますように。
(詩篇1914

 言葉に気をつけなくてはならない、ということは誰でも知っている。聖書にも、そのことがあちこちに訓示されている。ヤコブ書の三章には、ことば、すなわち人間の舌がどれほど問題であるかが、激しいことばで表現されている。人類は、あらゆるものを制することができるし、制してきたけれども、自分の舌を制することはできていないと、言っている。

 これは事実だ。自分の舌を完全にコントロールできる人はいないのだ。人は必ず、しばしばことばで失敗する。それが個人的な些細な事であれば、謝ったり、言い換えたり、言い訳をしたりして、済むことが多いけれども、公的な事柄では大問題になる。失言で大きな損失を身に招いた公人は少なくない。

 ことばはまた、その人の心と人格、「人となり」を表す場合が多い。「心にもないことを言う」と言われたりするが、それはちがうと思う。初めから、人を騙すために巧みな言葉を操る詐欺師などのような場合は別だとしても、普通は、人は心のどこかにあることを口にするのではないだろうか。でも、口先だけ、ということもあり、ことばは上手いが心は不誠実な人間も結構いる。

 自分のことばに責任を持たない、持とうともしない無責任な生き方をする人のことで「約束してくれたのではなかったのか、口から出まかせを言っただけ?…」そういう人のことばを真に受けて、傷ついたような経験をした人も多いかもしれない。心ないことば、冷たいことば、ひどいことば、愚かなことば、悪いことばなどなど…人はことばによって傷つけたり、傷つけられたり、人間の社会にことばによる問題は尽きない。

 クリスチャンといえども、よほど気をつけないとことばで間違ってしまう事は多いから、詩篇一九篇のおことばにある、祈りをいつもしながら、十分気をつけて歩まなくてはならないと思う。自分の言動を吟味し、反省し、悔い改めて直していく、神を知って生きている者にふさわしくと、努めたいものだと思う。

 また、できるだけ感謝のことば、温かいことば、希望のことば、高めることば、肯定的なことばを、自分にも、他にも、そして神さまに対しても、使うように心がけたいものだ。たとえ、そんなふうにはできないような、辛い状況にあっても、まずはことばをそのように使うことで、物事は好転していく場合が多い。自分の口から吐いたことばが、それを聞く自分の全身を支配し、人生を支配するというのは本当のようだ。

 神のことばである聖書は、神さまのご存在とご性質とお心を表現している。神は、人間のようにことばで間違ったり、ごまかしたり、失言したりはしない。神のことばこそは、裏も表も変わらない、建前も本音も違わない、正真正銘の真実だ。命のことば、愛のことば、力のことばだ。だから絶対に信頼できる。安心して信じられる。信じて心に光と力と喜びと平安が得られる。


後ろのものを忘れ

ただこの一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み… (ピリピ3・13

 過ぎ去ったことに、くよくよしたってはじまらない。ということは誰にでもよく分かっている事のはずですが、過ぎ去ったことが、いっつも心に引っかかって、苦しんでいる場合が少なくない、というのが多くの人の現実ではないかと思います。

 過去のいろいろな失敗や、自分の言動における不適切さや、すべきだった事をしないでしまった自分の弱さや足りなさ、「あの時、ああすればよかった。こうすべきだった」といった後悔、不当な苦しみを受けて傷を負ったこと、それに賢く対処できなかったことの悔しさや、その他様々なマイナスの事柄に対する、事柄以上にマイナスの感情が、いつまでも人の心を支配してしまうようです。

 特にクリスチャンは、どんな場合でも人を責めてはいけないと、絶えず自分を戒めて生きているので、その分、必要以上に自分を責めてしまうことがあるようです。

 真剣な反省や、心からの悔い改めは、クリスチャンになくてならない事ですし、それが神の前に生きている者の生き方ですから、真面目な信仰者ほど自分で自分がゆるせないことがあると思います。しかし、もし自分を責めたり。後悔するそだけなら、私たちは喜びのない、力のない生き方をしてしまうことになります。

 神は、過去の私たちの、罪、誤りを赦してくださる方であり、贖ってくださる方、私たちのよくない過去の事を忘れてくださる方です。私たちのように、たえず過去をちらちら見たり、ふっと振り返ったりもなさいません。すべて赦し、すべて拭い去ってくださるのです。神は恵み深い大いなる方です。(ヨハネ第一3・20

 人は、忘れたいのに、忘れることができない、手を離したいのに、それができないのですが、神さまが、信じる者のためにそれをしてくださいます。パウロは、赦しがたい自分の過去を、イエスさまの十字架の贖いの下に置いて、前に向かって進もうと決意して、それを勧めています。

 過去に、何があっても、主の完全な贖いの故に過去からの自由を得て、確信と希望を抱いて前を目指して前進する歩みをしていきましょう。


ユダとペテロ

 イスカリオテのユダは、どうしてイエスさまを裏切ったのか。敵に売ったのか。金のため(銀貨30枚)と思えるが、しかしそれを得て、彼はどうするつもりだったのだろうか。そんな事をして得たお金で、平安な幸いな人生を送れると、本気で考えたのだろうか。

 イエスさまが、彼の裏切りを見抜いていることを、聞いていたのに、彼はどうして途中でその悪のもくろみを辞めようとしなかったのか。イエスさまの言葉を思い見なかったのか。

 人が、心に悪を図ったら、悪の力に支配されてしまって、もう自分で制御できなくなり、それを実行するしかない、のかもしれない。恐ろしいことだ。人には、善をなす機会もあるが、悪をなす機会もあるから大変だ。

 人は、その心に願うこと、図ることによって道が開けると言われるが。悪を求める者には、悪の力が扉を開き、羈をつけて、悪の実行へと手助けするのかもしれない。

 ユダは、イエスさまの、刑罰を受けている無残なお姿を見て、後悔し、もらった金を返そうとしたが、断られたので、首をつって死んだ、と聖書にある。これが悪の結末だが、ユダは、一度も主を呼び求めることをしなかったようだ。「私が悪をなさないように助けてください」とも祈らず、「悪をなしてしまいました。赦してください」とも言わなかった。

 彼は、イエスさまと一緒にいて、イエスさまを知っていても、イエスさまとまったく関係のない生き方をしていた。光の主のそばにいながら、ユダの心は暗黒の中に住み続けていた。これはあまりに残念な事、不幸なことだ。

 ペテロは、確かにイエスさまを三度も否定したが、しかし彼が「主よ、私は決してあなたを否みません」と言ったのは、本心からであり、ペテロは本気でそうしたかったのだ。なのにその逆の事をしてしまったのは、彼の弱さのためだった。ペテロはユダのように悪をもくろんだのではなく、自分の弱さゆえに罪を犯してしまった。しかしペテロは、主の言葉を思い出して、激しく泣いた。悔い改めへと歩んでいる。

 これが信仰者だ。弱さ故に罪を犯すことがあっても、すぐに主を、主のみことばを思い出して、心から悔い改める。主に赦され、主との関係に生きる。ここに信仰者の恵みと、まっすぐに生きて行ける幸いがある。

 信仰によって、祈りによって、悔い改めによって、イエスさまとの関係に生きている者は、たとえ何があっても、決っしてダメになって終わることはない。

 罪を犯してしまう者でも、自分の弱さと非を認めて祈る者は、主の光に入れられ、ペテロのように、イエスさまから「あなたは私を愛するか」と尋かれて、「はい、もちろんです」と答えられるような、神を愛する偉大な生き方ができるようになるのだ。


ヨセフの物語

 創世記に書かれているヨセフの物語は、まさに非常に興味深い人間ドラマ、人生ドラマだ。文学という面でみても、十分に中身がある小説のような、感動的なドラマだが、しかし、一般の小説と根本的に違うのは、「主がヨセフと共におられたので…」という事が主題の、「神のみ業、神のみ手の働きである」という点だ。

 神は、全知 全能で、万物の主権者でもあられて、人の生き方(特に信仰者の)を奇しい力のみ手で導いておられる。ヨセフの生涯は、まさにこの神のご摂理を顕している。

 神は、神の僕として選んだヨセフの歩みを、ご自身のご計画に基づいて導いておられる。父ヤコブの寵愛を受けて、幸せだった青少年期、兄たちの妬みによってエジプトに奴隷として売られた時から、誤報による投獄までの苦難、獄屋でのある出来事から、エジプトの王の夢を解き明かすという、神がヨセフに与えた特別な賜物を用いての、思いも寄らない大出世。

 エジプトの総裁になったヨセフと、ヨセフの兄たちとの再会と、それに関わる感動的な話の展開、エジプトに行くヤコブの一族…。ヨセフは苦難によって、人格的にも、実際的にも成長して、主の僕としても、一国の総裁としても十分にやり遂げる手腕が備わったものと思われる。

 このようなヨセフの生涯の過程には、どんな時も主に信頼し、主を恐れる敬虔な心を持って生きていたヨセフを「主がヨセフと共におられて」万事が益になるように導いてくださった。

 私たちの人生は、ヨセフのように特別でも、ドラマチックでもないが、しかし、どの信仰者の人生にも、主を尊び、主に信頼して従っていくなら、「主が共におられて」万事が益になるように導いていただけるのだ。感謝!


詩篇に見る祈り

主よ、わたしはあなたに呼ばわります。
すみやかにわたしをお助けください。
わたしがあなたに呼ばわるとき
わが声に耳を傾けてください。
(詩篇141・1)

わたしは声を出して主に呼ばわり
声を出して主に願い求めます。
わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し
み前にわが悩みをあらわします。
(詩篇142・1、2)

主よわが祈りを聞き
わが願いに耳を傾けてください。
(詩篇143・1)

 このように詩篇には、そのまま私たちの主への祈りとして用いさせていただける、みことばが数多く見られます。

 ダビデを初め、詩篇の作者なる信仰者たちは、幸いの日に主への賛美と感謝をささげ、苦難と悲しみの日には、その辛さを包み隠さず主に訴えています。主を呼び、主に叫んでいます。

 心身に降りかかる、大きな窮状の時、それを理解してくれる人もなく、助けてくてる味方もなく、弱り果てて倒れんばかりになっているような時も、信仰者は、主の名を呼んでいます。主にその窮状を訴えて、弱り果てている自分をさらけだしています。自分を苦しめる者の悪しき手口や、仕打ちを訴え、彼らをやっつけてくださいと懇願し、その手から守ってくださるようにと祈っています。

 聖書は、ある人たちが言うように、「どんなひどい目に会っても、ただじっと我慢すればいいんだ」とは言っていないと私は思います。

 そんなことをしていたら、多くの場合、人は心身の病気になってしまうと思います。また、自分の心はそれではすんなり治まらないと思います。 そして、問題がいつまでも自分の心に引っかかって、そのうちつぶれる事になりかねないと思います。

 ですからそれを、主に訴えるのです。現状を詳細に、ありののままに、人間関係ならば、相手の言動、自分の辛さ、悔しさ、心配、恐れ、願いなどなど、見聞きしたことの全部、思うことのすべてを主に打ち明けて時を過ごすのです。

 そうして時間をかけて祈っていくと、必ず力が与えられ、光が見えて来ます。解決への導きや、悟も与えられて、ひどい相手のことも、主に委ねることで、自分を打った鞭の痛さにとらわれる事から、解放されていきます。

 そうして相手ばかりでなく、自分の罪、誤りの悔い改めにも導かれて、主との関係が深められ、苦痛に耐える力と平安が与えられ、主を知る喜びも心に戻ってきます。

 信仰者は、どんな時も、どんな事でも、まず祈ること、祈ることなしに決して確かな解決はありませんから。とにかく祈ること、何が何でも祈る事です。「誰も私の痛みなど解ってくれない」ように思える現実の中にあっても、祈れば気持ちが変わってきます。

 詩篇の祈りを参考にして、祈って祈って、大変な事の多い世にあって、主の光の中を歩めるようにしましょう。


神の主権

 「どうして神は、そういうことをしたのか、するのか」と言うような意見とも質問ともとれる、そんな言葉を時々聞きます。「どうしてこんなことが起こるのか?…」と考え込んでしまうような事柄は自分に直接関係あることでも、直接は関係のない世の中のことでも、いくつかあります。神さまを信じて生きていても、世の矛盾、理不尽に深く悩むようなことは少なくありません。そして殆どの場合、そのようなことに対して、心から納得出きるような答えは得られませんし、見つけられないのが実状です。

 聖書を読んで、その答えに気がつくこともありますが、そうでないこともあります。また、みことばから推測できるけれども、はっきりとはわからないこともあります。それでは、信仰者でも人生の解決はないではないか、と言われるかもしれませんが、それは違います。

 神さまは、人間にこの宇宙の全部の事を完全に明らかにされているのではありませんが、私たちが神を信じて生きて行くために必要なことは、伝えてくださっています。

 「神はどうしてこんなことを…」という質問に対して、私は、自分自身にも、他の人にも、「それは神さまの主権に関することだと思います」と答えます。

 つまり、すべての事の善悪、是非は神の手にあると、私は信じています。人間はそういう面でも、知恵、知識、思考において有限であり、神のように全知ではないです。「善悪を知る木の実」を食べても、神のようになったわけではありませんから。

 人生の矛盾に悩んでしまうあまり、神が信じられなくなったら、私たちの心は真っ暗くなってしまいますから、疑問を感じて悩みながらも、やっぱり愛の神を信じて、光の中をあゆみたいと思います。


傷んだ葦 くすぶる燈心

彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。(イザヤ42・3)

 みことばにあるとうりに、神さまはあわれみ深い方で、弱い者、無益な者をもお見捨てにならず、顧み、守り、助けてくださる。

 この世では、強い者、優れた者、有能な者、うまく立ち回れる者が尊ばれ、人々から愛され、受け入れられる。そして常に日の目をみている。弱い者や、欠けの多い者、要領の悪い者、生産性のない者、不器用な者は軽んじられ、退けられている。

 しかし、神さまは、痛んだ葦のような無益な者をも退けないで、その恵みの中に育んでくださる。くすぶる燈心、などというのは、無益などころか、はた迷惑でさえ有るような存在だ。そんな生き方しかできないような、ふつつかな者をでも、神さまはお見捨てにならないと、聖書に書いてあるから、自分の至らなさに落ち込む者には、これは実に恵みのことばだ。

 たとえ私たちが、そのようなものでも、神さまに守られている。とにかく自分はどんなんであっても、神を恐れる事さえ無くさなければ、神さまに顧みていただけるのだから、これは大きな慰めだ。弱い者でも、この主の愛に安らげる。


イエスさまは命のパン

イエスは彼らに言われた。「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネ6・35

 イエスさまは、人の体に必要なパンを与えられる方であると同時に、人の魂を養い満たす、霊的なパンだとも言っておられる。生物には食べ物が必要なことは誰でも知っている。だから「人は食うために働くのか、働くために食うのか」といった、一方の答えは出せない、出す必要がない論議まである。

 イエスさまは、マタイ四章のところで「人はパンだけで生きるものではない」と言っておられるが、これは、人が生きるには、肉体の食べ物だけでなく、霊的な食べ物、すなわち神のことばが必要だと言うことを意味している。

 イエスさまは、生物はパンだけで…と言われたのでなく、「人はパンだけで生きるものではない」と言われた。これは人は、他の生物とは違う霊的な存在であることを強調されたのではないかと思う。

 神を信じない人の多くは、霊的パン、魂の糧の事などあまり考えないで生活している。専ら肉体の糧のためにだけあくせくしているようだ。

 しかし、人が霊的な存在である以上、人には霊的パンが絶対必要なのだ。そうでないと、本当には人として生きてないことになってしまう。

 「生ける屍」と言う言葉があるが、これは、肉体のそれ以上の、霊的な死の様をも表しているのではないだろうか。体は生きているのに、死のような営みを している人々も少なくないことを知らされている。ある青年が、信仰の証をした時に「私はこれまで、若いのに、死の近い老人のような心地で過ごしていました」と、言われたのを思い出す。

 人を生かすものは、命のパンであるイエスさまと、霊の糧なる神のことばだ。

 「イエスさまを食す」という、この、心から神を信じる者でなければ、味わいえない、深遠な真理をもっとよく知りたいと思う。


折々の祈りの中から

    一、

 主よ あなたの光が見えるところに、私を置いていてくださって感謝します。

 手足が動き、目が見え、耳が聞こえ、生活に必要なものが備えられている、普通の朝を、平安な気持ちで迎えることができて感謝します。

 平常な日々が守られていることは、当たり前の事のように思ってしまう事が多いのですが、実はあたり前ではなく、神さまの特別な恵み、あわれみによる事だと教えられました。取るに足りない罪深い者に、いつも多大な恵みをくださる事を深く感謝します。

 体の不調や、大きな重荷、深い悲しみ、拭っても拭いきれない不安を抱えていて眠れない夜を過ごす人も少なくないと思います。私も時々はその一人になるのですが主よ。辛いことの只中にいる人々を特別に顧み、助けてください。

 あなたが、私の悩みの日に慰めと励ましと、祈りと信仰を与えてくださったように、今、苦悩と悲痛の中にいる一人一人を助けてあげてください。

    二、

 北風に鍛えられる面において、私は弱すぎます。

 もう、耐えられなくなって、主に申し訳ないと自覚しつつ、つぶやきや疑いの罪を犯してしまいます。耐えられない試練に合わせることがない(第一コリント十13)と、お約束くださっている主よ。どうぞ恵みのみことばにあるように、逃れる道を与えてください。

 その時を信じて、失望や不信仰に身を委ねてしまわないように。黙してただ、神を待ち望めるように、私に信仰と忍耐をお与えください。

    三、

 万物の造り主であられ、命の主であられ、主権者であられる全能の神さま。愛と力と恵みと知恵に満ちた、生きていらっしゃる真の神さま。聖書に書いてある通りの、唯一絶対の、比類なく偉大な神さま。私を罪と闇と滅びから、耐えがたい虚しさから救い出してくださった、私の救い主なる主イエス キリストの神さま。

 今日、礼拝において献金することができることを感謝します。

 礼拝で献金ができるということは、信仰が守られ、健康が守られ、経済が守られ、車やバスなどの乗り物が守られ、時間が守られ、教会が守られ、国が守られ、その他あらゆるものが守られているからできることです。

 それを思うと、教会で献金できるということの中に、どれだけ多くの、神さまの恵みがあるか、信仰者の素晴らしい幸です。感謝します。

 これからもどうぞ主よ。礼拝で献金し続けられるように、あらゆる恵みを与え、私たち主を信じ、主を慕う者たちを守ってください。


イエスさまに求めよう

 マルコ104653にバルテマイという盲人の乞食が出てきます。

 道端に座って乞食をするというのが、彼の日課だったようですが、この時代には盲人は、道に座って物乞いをする以外に、生きる術はなかったのだと思われます。バルテマイが何歳ぐらいの人だったかわかりませんが、イエスさまに呼ばれた時に、躍り上がって…とありますから、老人ではなかったと思います。

 バルテマイはこの日、イエスさまが近くにお出でになったことを耳にしました。目の見えない人は、耳が非常によく聞こえると言われますが、バルテマイは、誰よりも早くその事を聞きつけたのでしょう。彼はこのチャンスを逃してなるものかと、声の限りにイエスさまに向かって叫びます。「ダビデの子よ。私を哀れんでください」と。この叫びは「約束されたメシヤよ」という呼びかけですが、バルテマイの声は、この方こそは、私を救いうるお方、真の救い主だ!との確信に満ちて、大変大きかったと思います。周囲の人々は「うるさい、黙れ」と言いました。しかし彼はそれに負けずに叫び続けました。

 人々はバルテマイに同情したり、お金や食べ物を恵んでやったりしたことでしょうけれど、バルテマイのほんとうの必要、その苦悩と心の叫びには無頓着でした。人間とはしばしばそういうものかも知れませんが、バルテマイの叫びはイエスさまに届きました。イエスさまはバルテマイを呼んで尋ねました。「わたしに何をして欲しいのか」。イエスさまは神さまですから、バルテマイの求めを全部知っていたはずです。それなのになぜ、こんな質問をされたのでしょうか。それは、バルテマイが自分の口ではっきりとそれを主に告げる事を望んだから、だと思います。

 人は時々、自分が何を求めているのか、自分のほんとうの問題は何なのかわかっていない時があります。

 優れたカウンセラーは、その人の問題が何なのか、どうしたいのか、をわからせてやることが先決だということを知っていて、そのように導くと言われますが、自分の状態、問題を的確に把握し、表現していく事は問題解決の出発点だと思います。でもこれは簡単にはできないことが多いようです。何か知らないけど、何となく辛い…という状態でとどまっていたら、問題の解決には至らないで、悶々とした苦痛が続いてしまうのですが。

 目の見えないことが、バルテマイの問題であり、見えるようになることが解決でしたが、彼はそれを他ではない、イエスさまに求めました。全能の力と悩む者への深いあわれみをもって人を救う、バルテマイが信じた通りの真のメシヤに。このバルテマイの癒しは、史実的には肉体の目ですが、人の目というのは、肉体の目だけでなく、心の目もあります。「目の前が真っ暗、一寸先は闇、目から鱗…といったことばは、肉体の目の事ではなく、心の目、人生の様相をさすことばです。

 人間は、たとえ肉体の目が見えていても、心に光がないと、暗く惨めな気持ちになります。ですから何とかして早くその闇を追い出そうと努めるのですが、一旦心に闇が入り込むと簡単には追い出せず、光の見えない状態で、やり切れない日々を過ごしてしまいます。人生に襲い来る様々な困難や挫折が、私たちの心に闇を作ってしまうのですが、そんな時、信仰の目をもって主の光を見ることができたら、私たちは心の暗さから救われます。

 バルテマイのように「イエスよ私をあわれんでください」と主に叫び求め、自分の現状をそのまま申し上げて、主から真の救いと光をいただきたいと思います。主は必ず、主の名を呼ぶ者に答えてくださいます。


ああ 主のことば 真理のことば

 主のことば。この特別なことばは、聞くごとに、読むごとに、心に響き、光を注ぎ、揺るぎない神の愛を見せてくださり、希望と、慰めと、力と、励ましと、生きる喜びを、新たに与えてくださる命のことばです。信じる者を育むことばです。

 どこを開いても、いつ読んでも、それが与えられる。そして、どんなに大変な時も、みことばを頼りに、みことばを握りしめて、祈ることができる。そうして弱い私もつぶれることなく、厳しいと思える道を進んでくることができました。

 いろんな事で心が疲れ、落ち込んでしまって、聖書を開く気にもなれないような心境の時でも、それでもなんとか聖書を開けば、そこには間違いなく光があり、泉が沸いている!

 こんな不思議な書物が他にあるでしょうか。こんなに繰り返し、あらゆる状況の中でも生きる力を与えることばが、他にあるでしょうか。

 「ある日聖書を手にすることができた。そこに書かれてある事を信じることができた。それ以来、ずっと読み続けてくることができた。」これは、神さまの大きな恵です。この上ない幸です。ああ こんな幸いを日々に味わえるなんて、この世にはない、信じる者の特権であり、宝です。この偉大な聖書を罪人にお与えくださった神さまに感謝します。


悲しみ 深い悲しみ 死ぬほどの…

「わたしは、悲しみのあまり死ぬほどである。」(マルコ1443

 イエスさまは、いよいよ十字架の死が迫っている事を知って、ゲッセマネの園で祈っておられた時、このように言われました。

 死ぬほどの悲しみ、それは、心が凍るような、全身が切り裂けるような、身悶えしてもなお、やり場のないような、もう決して立ち上がれないと思えるような絶望的な、言葉を絶したものであるか、経験したことのある人は分かると思います。

 悲しみのあまり、ほんとうに死を選んでしまった人たちもいるのですが、その深い悲しみの理由(わけ)は、それぞれ違っているとしても、その切なさ、やりきれなさは同じだと思います。

 そんな悲しみを、辛く、長い時間を経て何とか乗り越えた人が、つくずくと言われたことがありました。「ああ、あの時は実に、痛かったですね。辛かったですね。苦しかったですね」と。

 ゲッセマネでのイエスさまの、死ぬほどの悲しみは、人の悲しみであり、そして神の悲しみでもあったと思います。神の御子が、神ご自身が死ぬほど悲しまれた…。それは、人間の罪のためでした。人間の罪を贖うために、死ぬほどの深い悲しみを経験されたイエスさまは、私たちのどんな悲しみをも分かってくださるのです。

 以前の事ですが、私はそれこそ立ち上がれないような悲しみに打ちのめされて、泣きながら祈っていた時、「私は悲しみのあまり死ぬほどである」との主のお言葉が心に浮かんで来て、慰められ、励まされて、悲しみから立ちあがることができた、経験をしました。主イエスさまが私の悲しみを理解してくださっている、と気がついたからです。

 人生には、時に死ぬほどの悲しみもあります。そこからたち上がるのには、この悲しみを舐められたイエスさまを見上げることで、力が与えられると思います。


救いの神なるイエスさま

 大きな問題の只中にあってもがき苦しんでいる人が、信仰者の知人から「人間の苦しみは、自分の罪のせいだから、そこから逃れたいと考えることは間違っている」と言われて、ひどくショックを受けたと話していた。祈れなくなったと。

 私はそれを聞いて思った。確かにそれはそうだけれども、しかし、それだけ言って終わったら、世が教えている因果応報と同じで、福音は意味をなさなくなるのでないだろうかと。

 福音は、イエスさまの十字架の贖いの故に、人は罪赦され、罪による傷をも癒される、と繰り返し告げている。

 あわれみ深い神さまは、まさしく自分の罪によって招いた放蕩息子の惨めな様を、咎めることをしないで、赦し受け入れ、洗いきよめ、最上の着物を着せてくださった。つまりその悲惨と苦しみから救ってくださったのだ。

 「主は私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない」(詩篇10310)と、みことばにある通りだ。

 「苦しみや不幸は、あなたの罪のためだ。」とだけ言うのならば、あの生まれつきの盲人を見て「彼が盲人なのは、本人の罪のせいか、親のせいか」と主に問うた(ヨハネ九章)弟子たちと同じではないかと思う。主はそれに対して「親のせいでも、本人のせいでもない。神の栄光があらわれるために…」と言われた。神はいつも、罪人を温かいいたわりの目で見てくださっている。罪ある私たちを様々な苦しみから救ってくださる、愛と力に満ちた救いの神だ。

 主はまた、あわれみ深い大祭司でもあられる。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みのみ座に近づこうではありませんか」(へブル4・16)とあるように、私たちは苦しい時、辛い時に、神の助け、救いを求めていいのだ。神がそれを奨めてくださっている。

 神は、「ひとり子を賜ったほどに世(罪人)を愛してくださった」という福音は、人の苦しみを、「それは、自分のせいだから、仕方ないでしょう」といった運命論的なものでも、因果応報の教えでもない。まさしく、罪ある者を救う神の恵みだ。様々な苦しみの中にある人々に、この恵みの福音を伝えなくてはならない。


雨降り 風吹き

 神を信じている私たちの人生にも、雨が降り 風が吹き 時には大嵐になる時もあります。予期していなかった、まさかと思うような事柄に見舞われて、目の前が真っ暗になったり、ショックでなかなか立ち上がれないような事もあります。

 それは、病気や怪我 仕事や経済の困難、失敗や挫折など、個人的な事もあり、また、信頼し、安心して関わってきたような相手との、対人関係の中に生じる事もあります。良い関係を作ろうと務め、相手を大切にして関わって来たのに、心が通じなかった。無駄だったなあ、と思える時は、人の世が嫌になったりします。

 そんな時も、ひたすら祈って神さまを見上げると、主から慰めや、諭しをいただきます。心にみことばの光が射してきて苦痛が和らいできます。そして、神さまを信じているから立ち上がることができたと、深い感謝が沸いてきます。「万事が益になる」(ローマ8・28)とのみことばは事実なんだと、改めて思い喜びも経験します。

 また、気落ちしている者を慰めてくださる恵み深い神さまは、近くの、また遠くの友人、知人からの、心のこもった便りや、電話やメール、暖かいギフトなどをいただけるようにご配慮くださって、弱いものを具体的にも励ましてくださることがよくあります。

 生きている限り、世の雨風は避けられませんが、その中でも、神を信じる者は必ず助けていただけますから、大丈夫なのです。


主の光の中に歩む

光の子らしく歩きなさい。光はあらゆる善意と正義と真実の実を結ばせるものである。(エペソ5・8〜9)

 いつ読んでも美しいみことばです。そして、いと高く、聖なる神につける生き方の尊さ、香り高さを示しています。

 「神は光である」というのは、聖書がはじめから伝えていることです。神を信じて生きる者は、光の中に生きる者ですから、闇を嫌い、闇から離れて生きられるように励むのです。この世の闇に、また自分の心の闇に支配されないように絶えず気をつけ、絶えず祈り、主の光の中に歩んで行くのです。

 これは決して窮屈な生き方ではなく、むしろ心に自由があり、確信のある人生を、光の中だからびくびくしないで歩めるのです。

 この世の闇、自分の心の闇は深く、その力は私たちが感じている以上に強く、人を打ち負かそうとします。しかし、光の神を信じる者、畏れ尊ぶ者、祈る者は闇の力に勝って進むことができます。

 光の子らしく歩む上で、留意すべきことは、自分の罪を認めること、自分の心に潜む罪の闇をごまかさないで、素直に悔い改めることです。

 人は、この世に生きている以上は罪を犯し、時々間違いもしてしまう者です。たとえ行いでそうしなくても、心に闇が忍び込む状況は、いつも間近にあり、私たちはそれに捕まってしまいやすいのです。それに自分の弱さが加担してしまう時、それをごまかし、隠しても、闇は決して消えていかないばかりか、それをしてしまうとかえって心に闇が広がり、深くなって、やがて神の光が見えなくなり、うわべだけを光の子らしく繕う、偽善に陥って光の恵みを失ってしまいます。

 愛の神さまが、弱い私たちに悔い改める恵みを与え、主の十字架の赦しと聖めの道を提供してくださっているのですから、喜んで感謝しつつ、この恵みの中を歩みたいものです。


神の言葉を無にしないように

「こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えによって、神のことばを無にしている。」(マタイ15・6)

 イエスさまは、当時のユダヤの指導者たちの問題点を、このように指摘されました。一応神のみ名は覚えられ、神の教えの事は語られていたけれども、その真の意味が伝えられてはいなかった、神の尊いことばが、人間の教えにすり替えられてしまっていたというのです。

 聖書は、「どのようにでも解釈できる。使用できる」という面がないでもない、と言えると思いますが、それは、聖書を読む人の、心、神への態度によってではないかと思います。

 真心から、神を恐れ、敬い、聖なる神の前に、自分がいかに小さく、弱く、罪深い足りない者であるかを自覚している人は、聖書を開く度に、みことばの前にひれ伏す気持ちで、「しもべは聞きます。主よお語りください」と、そのみことばが、何を語っているかを謙虚に聞いて、教えられて、それを「神からの大切なもの」として、人に差し出すようにしようと、努めると思います。

 絶えず聖霊の導きを祈り求めつつ、尊いみことばを、この世のものとは違う、神の真理として、命のあることばとして伝えなくては…と励むのだと思います。

 それと逆に、聖書を用いて自分の利を図ったり、自分の言いたいことが、先にあって、それをを言うために、みことばを使うことがあるようです。

 そこには「さらによく神のことばに聞いて、この偉大な神を伝えよう」とする願いよりも、「自分の何かを人に知らせたい」、みたいな意図が働いているのではないかと、感じる「聖書的お話」が、時々あるようです。 それらの中には、聖書のみことばを、この世の地盤の上に置いているので、人には受ける、一般的でわかりやすい、と言われるようです。

 心理学だったり、処世術だったりで、実生活に役に立つからと、受け入れられるようです。聖書のみことばもそれらの話に使っているので、聞く人たちは「聖書が話されているのだ」と受けとると思いますが、みことばの真理は見えているのだろうかと、思ってしまいます。

 イエスさまが、昔ユダヤの指導者たちに言われたように、「神のことばを無にする」ような事がないようにしたいものだと思います。

 折角、イエスさまが命をかけて与えてくださった、福音の真理、救いの真理、永遠の真理を、人間的な教えによって、「根無し草」にしてしまわないように気をつける人たちが多くなるように祈ります。


語 る

 私たちは、相手に伝えたい事があると、言葉を尽くして語ります。一度や二度 話しても、分かってもらえない場合、何とかして分かってもらおうとして、繰り返し語ろうと努めます。それでもうまく通じなかったら、心がひどく痛みます。

 神さまも、鈍い私たちに、何回も何回も忍耐深く語りかけてくださっていますが、私たちは、それをよく聞き取れないでいることがあります。それでもなお神さまは、愛をもって語りかけ続けてくださっていることを思わされました。 私たちが神さまのみ声を聞き取れなかったり、そのみこころを曲解してしまったりしたら、神さまはひどくお悲しみになるに違いないと思わされました。

 主のみ声をしっかり聞きながら歩む者にならなければと、教えられました。


主の守り

 「主の守り 主の守り 絶えず注ぐ主の守り」

 先日、カリフォルニアを訪れての帰りの事、夕方飛び立つ飛行機が、ダラスのほうがひどい嵐のために、着陸困難でキャンセルになるかもしれない…というアナウンスが飛行機を待っている間に、何度かありました。

 困ったなあ、どうしようかと思いながら、祈り、空港から主にある友人の方々にも祈りの依頼の電話をかけました。

 でも出発時刻になって、飛行機は予定どうり飛び立ちましたが、場合によっては着陸地変更もありうるという、アナウンスも流れました。

 飛行機の中でも祈りつつの旅でしたが、なんとその飛行機の着陸30分前に嵐が止んで、無事にダラスにある空港に着陸できました。いつもより少しく激しいバウンドでしたが、飛行機が無事滑走路に着地した瞬間、乗客の皆さんから歓声と大きな拍手が起こりました。

 迎えに来てくれた家族も、恐ろしいほどの嵐が、ほんとうにピタリと止んだのだと驚いていました。

 昔、海の波を静められた主が今回も、その大きな恵みのみ手で、嵐を静め、私たちを守り、助けてくださったことを深く思わされ、感謝しました。

 そしてこの経験は、祈り続けても、答えはいただけないように思える現実の中で、信仰が弱りがちな者への大きな励ましにもなりました。

 変わることのない大いなる主の恵みと、お力を崇めております。


食べ物をくださる神

イエスは彼らに言われた。「さあ来て 朝の食事をしなさい」(ヨハネ2112

 一晩中海で働いて、疲れて空腹だった弟子たちのために、主イエスさまは食事を用意してくださいました。「人はパンだけで生きる者ではない」と、人間に必要なのは、肉体の事だけでなく、霊的な事が大切だと教えられたイエスさまですが、しかし、人間の実際の必要にも十分なご配慮をしておられます。

 空腹の時はまずは食事を取るように、疲れた時は休むようにと、主はいつも人の必要を気遣ってくださっています。 ペテロに対しても、まず食事をさせてから「私を愛するか」と大切な事をたずね。従順を求められました。

 主は、霊的にも肉体的にも、絶えず人を養ってくださるお方です。イエスさまは、人に「まず神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6・33)と、教えられましたが、それに続いて「そうすればすべての必要が与えられる」と、神を求め、神を信じて生きる者に、この世で生きていくために必要なすべてを与えてくださると約束してくださいました。 私たち信仰者は、このような恵みに満ちた愛の神に、神の子として守られ、助けられ、支えられ、養われて生きてゆけるのです。 たとえ厳しい現実の中にあっても、この方に信頼して歩むなら大丈夫、生きてゆけるのです。ハレルヤ!


誰の罪のせいで…

 ある時、イエスさまの弟子達が、道端に座っている目の見えない人を見て、イエスさまにたずねました。「この人が生まれつき盲人なのは本人の罪せいですか。それとも両親ですか」と。(ヨハネ9章)

 この質問は、目の見えない気の毒な人に対して大変冷たいことばです。ユダヤ人である弟子達が、律法の教えの、またそれを観念的にとらえた人々の言い伝えの中に生きていたとはいえ、生まれつき不孝な身の上を背負った人に対して、ずいぶんひどいことばだと思います。

 人間は たいてい、苦しむ者に冷たい目を向け、責める言葉を吐きます。でも神さまは違います。イエスさまの答えは、誰の罪のせいでもない。神の栄光があらわれるためだと、この盲人を神の栄光の器として見ています。これはこの盲人への最高の愛の目です。これがいつも変わらない神の目、神のお心です。

 人が苦しむのは、親のせいだとか、先祖が悪いことをしたので、そのたたりだ、などという者は、今、自分が犯している罪を認めたくないので、それをごまかすために他のせいにして、逃げている人の言い分ですから、間違っています。そんな神を知らない、この世の人と同じような 考えをクリスチャンは、聞く必要がないのです。イエスさまの十字架の贖いは、 私たちの過去、現在、将来のすべての罪をゆるして余りあるものです。大事な事は、へりくだって悔い改めることです。そしてみことばを握って(ヨハネの手紙第一1・9)、赦しを信じることです。

 多くの信仰者が、まじめに悔い改めて罪を告白したのに、はっきり神の赦しを信じることをしないので、いつまでも赦されたはずの罪に責められるのです。罪を赦すのは神のなさること、人はそれを信じて救われるのです。赦しを受け入れて感謝し、安心するのです。その罪に大小はありません。神は、悔い改めて、十字架のあがないを信ずる者の、すべての罪を赦されるのです。ご真実な神が「赦す」と言われるのですから、確かな事実です。それを信じないのが不信仰の罪です。

 人はだれも皆、「ああしなければよかった、あの時こうすればよかった…」 といった、悔やまれるような過去をいくつも持っています。そして後悔してい ます。人間がみなおろかで不完全だからです。まちがった過去が、現在に大きな影響を及ぼしているのは事実ですが、イエスさまを信じる者は、その間違いだったかもしれない過去を、神に贖ってもらって、もう振り返らないのです。

 人は、どんなに悔やんでも過去は変えられません。神を知らない人は、その過去にいつまでもとらわれて、惨めな心で生きてしまうのですが、信仰者は過去をい じくってそこにとどまるものではなく、神の大きな愛と救いを信じて、過去がどうであれ、とにかく信仰によって前に進むのです。(コリント第二5・17)そうでなければ、十字架の救いは力ないものになってしまいます。

 神のことばである聖書は、赦しと恵みと力に満ちています。この世の人々は、人の不幸は先祖のたたりだとか、神の罰だとか言いますが、聖書の福音はそんな事を言っていません。むしろ、この世では、正しい人が苦しむことも多いのです。この世が悪の世だからです。この世では悪い人が苦しみ、良い人が恵まれる、ということではないのが現実です。その逆のほうがが多いかもしれません。これは誰もが感じている理不尽です。

 人間はみな、アダムの子孫ですから、罪のための苦しみは、アダムという先祖のせいだ、ということになりますから、これは確かにそのとおりなわけですが、それを言っても、私たち一人一人の罪の解決にも救いにもなりません。聖書はあくまでも、今ここに生きている人間の救いの道を示しているのです。先祖アダムのせいで、人類は誰も皆、罪を犯しつづけ、子孫の罪につなげてしまっているわけです。

 でもそれを聖書は問題にしているのではありません。聖書にはいろいろな事が書いてあります。世のはじめから、世の終わりのことまでですが、それはそれは多くの事柄を取り扱っています。自分に当てはまることも、そうでないことも沢山あります。

 しかし、聖書の中心は、「イエスさまによる救い」です。この観点から聖書を読まないと、また、メッセージを受け取らないと、みことばによって生かされることができないでしょう。現実はどうであれ、「私は神に愛されている、ゆるされている、受け入れられている」と信じて、本気で信じて、みことばを受け止めることで、人は生きられるのです。

 聖書をどう読むか、どう解釈するかで、人の生き方は大きく変わります。神が求めておられるのは、イエスさまの救いに見られる神の確かな愛を信じる信仰を持って読み取ることです。そうでないとみことばを使って、間違うことがあるのです。祈りつつ、人間のいうことでなく、神の愛の言葉を信じることです。

 絶えずへりくだって、聖霊の導きを求めつつ、恵みのみことばを聞く者になりたいと思います。


神さまからのギフトの数々

 私たちは、予期しなかった事が起きると、心が乱れてしまって、平静さを失い、苛立ってきます。そうして人を責めたくなったり、あるいは自分を責めたりもするのですが、神を信じている者は、そんな時もまずは祈ります。神さまを見上げます。みことばを思います。そうしますと、このことも神さまが助けてくださる、万事を益にしてしてくださる(ローマ8・28)とおっしゃってくださっている神が、みことばのとおりにしてくださると信じることができるようになり、心が静まってきます。感謝ができるようになります。もし私に信仰がなかったら、何かある度に、心が乱れるばかり、暗くなるばかり、落ち込むばかりだったと思います。

 信仰も、祈りも、諭しも、悔い改めや反省も、人への愛や気遣いも、希望も感謝も、みんなみんな神さまからのギフトなんだなあ、自分にはなかったのに、いまこうして、それらを持てるのは、本当にただただ、神さまからいただいているんだな、とわかってきます。

 そしてその、予期しなかったマイナスのことも感謝して、神さまにお委ねできるようになります。信仰ってありがたいです。ハレルヤ。


思い煩わないで

 人は何と多く不必要な事や、考えてもどうにもならないことをあれこれ考えて、心煩わしていることでしょうか。そうしてほんとうに必要な事や、大切な事はあまり考えないでしまう場合が多い事でしょう。私たちは、毎日いろんなことに直面しながら生きていますから、あの事をどうしようか、この事はどうなるんだろうかと思い煩ってしまう事がよくあります。でも聖書は、神を信じる者に、幾度も「思い煩うな」と勧めています。思い煩わないで、神さまを信頼して祈りなさいと教えています。

 私たちの人生に起こり来る、さまざまな問題、課題を神さまが解ってくださっているから(ピリピ4・6)神さまが私たちのことを心配してくださっているから(ペテロ第一5・7)明日の事は神さまに任せなさい、苦労は、その日一日だけで十分だから(マタイ6・34)等など。どんな大変な事柄でも、思い煩わないで、神に委ねる信仰を身に着けることはとても大切です。信仰も精神も弱い私たちですが、聖書は神さまからの励ましのことば、慰めのことば、労りのことばに満ちています。

 神の恵みによって迎える日々において、みことばに私たちの心を向け、耳を傾けて、その光の中を歩み行き、なおいっそう主に近づく者、主を知る者、主を愛する者になりたいと思います。