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クリスチャンのセルフエスティーム



    聖書と心理学
      ―バイブルクラスの学びより―

 聖書は、過去に、道徳の教科書や哲学の本として扱われ、現代は心理学の本であるかのように扱われ、キリスト教とは要するに、苦しい人に慰めを与えたり、悩んでいる人に心理学的な解決を与えるだけのものだというように考えられるようになりました。それで、信仰はイエス・キリストを悔い改めをもって受け入れ、聖霊の力によって心の深みから新しくされて生きていく事でなく、自分をよろばせる手段、上手に生きていくテクニックにすぎないと考えられるようになってしまったのです。確かに、聖書は慰めの書物であり、私たちを積極的な生き方へと導くものですが、それは、神様を抜きにした「積極思考」とは違うはずです。ある種のテレビ説教者たちが、「富と健康」を欲する人々の求めにこたえて、単なる心理学的なメッセージで孤独な人の心をひきつけ、金儲けの種にしているのを見ると、腹立たしくなることがありませんか。それは純粋な聖書の教えでもなく、正確な心理学の学説でもないのです。

 こうしたことの反動として、「心理学には一万以上もの学説があって、どれも一致していない。心理学者は人を直すことができない」と、どんな心理学も否定する人が現れるのです。たしかに現在主流となっている学説は、あからさまに神を否定する思想から生まれたもの、オカルト的な世界観からつくりあげられたもの、人間を単なる機械のようにあつかうものです。精神科医やカウンセラーの中には信仰も精神的な病気の一種であって、治療に邪魔なものと考える人もいます。しかし、だからと言って心理学をすべて否定することもできません。肉体の病気であれば、自分は病気であるという自覚、直りたいという願いを持ち、病気が良くなるために医師の指示に従いますが、こころの病気の場合は、自分が病気であることの自覚が乏しい場合が多く、したがって直りたいという願いも薄く、結果として、回復のステップを無視した生活をするので、良くならないということがあるのです。ですから全部が心理学者の責任であるというわけではありません。

 私たちは、神様によって特別に造られた存在です。私たちを一番良く知っていてくださり、私たちをいやしてくださるのは神様です。聖書の人間観の上に立って、神様がくださった知恵としての心理学を用いるのが正しいのです。心理学的の俗説を聖書の教えのようにすることのないようにしましょう。



    三つの愛
      ―バイブルクラスの学びより―

 イエス様は「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」の二つが、数多くの戒めを要約したものであると教えてくださいました。ここには神様を愛する愛、人を愛する愛が教えられていますが、もうひとつの愛についても教えられているのにお気づきでしょうか。それは、「自分を愛するように」と言われているように、自分を愛する愛です。もちろん、ここで「自分を愛する」と言っても、それは、

「終りの時には、苦難の時代が来る。その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、…となるであろう」(1.テモテ3:1-5 )と言われているような意味ではありません。神様よりも自分を高くし、他の人たちよりも自分を先とすることに私たちの罪があるのです。けれども、健全な意味で自分を愛することも大切なことなのです。いつも自分を惨めに思い、自分を嫌っている人がどうして「自分を愛するように」他の人を愛することができるでしょう。そのような人は、他の人からの愛を受けていてもそれを感じることができなくて、他の人の自分への関心を要求するあまり、自己主張が強くなり、結局、人間関係がうまくいかなくなるのです。また、自分の低いセルフ・イメージから、神様を推し量るので、神様の大きな愛や恵みに気づくことができず、神様を小さいもの、無力なものにしてしまうのです。

 優先順位から言うなら、まず神様を愛すること、次に他の人を愛すること、そして自分を愛することの順に三つの愛を並べることができますが、体験的には、自分を愛することからはじまって、人を愛すること、神様を愛することへと進んでいきます。しかし、どうしたら自分を正しく愛すること、受け入れることができるのでしょうか。それは、神様があなたをすばらしく創造し、こよなく愛しておられ、あなたに使命を与えておられるということを知ることから始まります。神様の愛以外の何かによって自分を支えようとしてもそれは頼りにならないもの、不完全なものです。「神がわたしたちを愛して下さって、…」(1.ヨハネ4:10)神様への愛を求める人は神様からわたしへの愛を受けることから始めるのです。



    低いセルフエスティームとその結果
      ―バイブルクラスの学びより―

 今回のバイブルクラスの主題「セルフエスティーム」とは、自分を正しく受け入れていることを意味する言葉です。自分をつまらない者としか見ることのできない場合、それを「低いセルフエスティーム」と言い、自分を尊い者と考えることを「高いセルフエスティーム」を持っていると言います。この場合、謙遜であることと、低いセルフエスティームとは同じではありませんし、高いセルフエスティームは高慢とも違います。

 たとえば、使徒パウロは以前教会の迫害者でした。他の使徒たちのように復活前のイエスに師事したわけではありません。彼は「会って見ると外見は弱々しく、話はつまらない」と言われ、反対者から何かにつけて非難されました。パウロは自分の罪深さ、小ささを十分にわきまえ、自らを「罪人のかしら」「使徒の中で一番小さい者」と呼んでいます。しかし、彼は同時に「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」と、神様にあって、自分の立つべきところにしっかり立っています。非難によって自分を卑下したり、困難があるからと言ってだめにはなりません。「わたしは、…ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている」と回りに左右されないものをしっかりと持っていました。神様の前にへりくだり、人の前に謙遜でありながら、高いセルフエスティームを持つことはできますし、本当の意味で高いセルフエスティームを持つ人は神様にたいしても、人々にも謙遜になれるのです。

 低いセルフエスティームはどんな結果をもたらすでしょうか。人生を喜ぶことができなくなる、自分の能力を発揮できなくなる、自己中心になる、対人関係や結婚関係に障害がおこる、人生の大切な選択で失敗する、自分の体を嫌う、堕胎したり子供に敵意を持つ、過食症や拒食症になる、恐れに支配される、デプレッションに陥る等々です。こうした低いセルフエスティームは多くの場合、親や兄弟、親しい人々から低く見られてきたことに原因があります。そのような人は、自分自身に否定的な言葉を語り続け、自分の子供を同じように扱ってしまいがちです。こうして罪の循環が続くのです。しかし、この悪循環を断ち切る道があります。それがキリストの救いです(1.ペテロ1:18,19 )。



    「神のかたち」としてのあなた
      ―バイブルクラスの学びより―

 クリスチャンのセルフエスティームとは、自分が自分以上に立派なものであるかのように思い上がったり、自分の価値を何かのテクニックで高めようとすることではなく、神様が私を見ておられるとおりに自分を見るということです。

 私たちは「自分のことは自分が一番良く知っている」と考えがちですが、案外そうではなく、自分を一番知らないのが自分なのです。詩篇139:1 に「主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました」と書かれています。神様が私を一番良く知っておられます。なぜなら、神様が私たちの造り主だからです。「あなたはわが内蔵をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。…あなたは最もよくわたしを知っておられます」(詩篇139:13,14)と書かれているとおりです。あなたは、私たちが神様によってどんなに素晴らしく造られているか、お解りですか。そのことが解るなら、私たちは自分を正しく見つめ、他の人を受け入れることができるようになるのです。

 神様が動物・植物をお造りになった時、それらは「種類にしたがって」造られました。つまり、神様のお心の中に犬は犬、猫は猫としての設計モデルがあって、彼らはそのパターンにしたがって造り出されたのです。ところが人間の場合は、神様は「人間」という独立したパターンを用意されなかったのです。それは、神様が、他の動物とは違って人間にはもっと素晴らしいことをしようと考えておられたからです。それは、人間を「神のかたち」にしたがって造るということです(創世記1:27)。この場合の「かたち」とは、もちろん人間の肉体のことでなく、物を考える力、目に見えない人のよろこびや悲しみを感じ取ることができる能力、正義やあわれみなどの性質、自然を治める権威などをさしています。人間は決して神ではないし、神になることもありません。しかし、人間は最も神に近い存在であり、神様と親しい交わりを持つことができるものです。現代人は、人間を他の動物から進化したものと考え、自分が神のかたちに造られたことを否定してきました。その結果、人間は動物以下のことをするようになり、互いに傷つけ合うようになりました。もう一度、自分たちが「神のかたち」であることを見つめなおす時が来ているのです。



    あなたには価値と目的がある
      ―バイブルクラスの学びより―

 前回は、私たちが「神のかたち」に造られているということを学びました。ダビデは「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか。人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」と歌います(詩篇8:4-61)。人の命が尊いのは「神が自分のかたちに人を造られたゆえ」です(創世記9:6 )。

 ところが、神のご性質は影をひそめ、世界を正しく治めるどころか、自分をさえコントロールできないで、多くの問題をかかえているのが、私たちの現状です。私たちは自分で自分を傷つけ、互いに傷つけあって、私たちのうちにあった「神のかたち」をそこなってしまいました。「彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心はくらくなったからである…」(ローマ1:21) と書かれているとおりです。このような状態を聖書は「失われた状態」「罪の中に死んでいる状態」と呼んでいます。神様は、私たち「失われた者」を捜し出し、取り戻すために、「罪の中に死んでいる者」に命を与えて生き返らせるために、救い主イエス・キリストを送ってくださいました。「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である」(2.コリント5:17)。

 私たちは、誰もが神様の目から見て尊い価値ある存在です。しかし、イエス様によって神様のもとにたちかえるまでは、家具の裏にころがっている銀貨のように、あなたの価値は失われたままになっているのです。あなたはイエス様によってはじめて、自分の価値を取り戻すことができます。また、「神のかたち」にしたがって、私たちを造り変えることがお出来になるのも、イエス様だけです。そして、新しく造り変えられた者は、自分の人生に、セキュリティと目的を持つことができます。神様は、その手で心を込めてお造りになったものをお捨てにはなりません(ヨハネ10:28,29)。神様は、私たちを素晴らしいことのために用いようと、目的をもって私たちを造ってくださいました。イエス様によってあなたの価値と目的を発見してください。そして、「私たちは神の作品」(エペソ2:10)、神様のマスターピースであることを心から喜ぼうではありませんか。



    自分を変える方法
      ―バイブルクラスの学びより―

 あなたは、「もう一度人生をやり直せるなら」「別の自分に生まれ変われるなら」という願ったことはありませんか。しかし、誰ひとりとして人生をやり直すことはできませんし、別の自分になることも出来ません。洋服を替えたり、住む場所を変えたりしても、あなた自身は変わらないのです。だれも、過去に起こったことを取り消すことはできませんし、今の自分を別の自分に取り替えることはできないのです。しかし、人にはできない事も、神様にはお出来になります。神様は、あなたを造ってくださったお方ですから、あなたを造り変えることがお出来になるのです。では、神様は、あなたをどのように造り変えてくださるのでしょうか。

 第一にそれは、あなたの罪を赦すことによってです。あなたは、あなたの神様への罪によって、神様の正義の審判のもとにあります。あなたがご自分では、神様を「優しいお方」と考えていても、実際は、そのままではあなたは神様の敵なのです。神様は、イエス・キリストの身代わりの刑罰のゆえに、あなたの罪を赦し、あなたとの間に正しい関係を与えようとしておられます。これによらないでは、あなたは神様の愛や恵みを受け取るどんな権利もないのです。神様との関係が正されるなら、あなたは夫との関係、子どもとの関係、友人との関係、自分との関係を正していくことができ、新しい人生を歩み出すことができるのです。

 第二にそれは、あなたを神のこどもにすることによってです。神様は最高裁判官として私たちを無罪と宣告するだけでなく、天のお父様として「前科者」のあなたをご自分のこどもにし、神の家族の中に迎え入れ、愛し、養い、育て、世話し、教え、導いてくださるのです。あなたは神の子の身分に生まれ変わるのです。

 第三にそれは、あなたの信仰と悔い改めによってです。神様はあなたの了解なしにあなたの罪を赦したり、あなたを神の子にしたりするのではありません。あなたがご自分の罪に気づくこと、それが、あなたの人生の最大問題であることを認めることが必要です。悔い改めと告白をもって、あなたを救ってくださるイエス・キリストをあなたの人生の「主」として迎えいれてください。その時あなたは造り変えられるのです。「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られたものである」



    悔い改めと告白
      ―バイブルクラスの学びより―

 前回、「悔い改め」と「告白」について触れました。悔い改めや告白は時として、無視されたり誤解されたりすることがありますので、次のことを正しく理解していただきたいと思います。

 第一に「悔い」と「悔い改め」は、違うということです。「悔い」「後悔」は、「あんなことをしなければ良かった」と、自分のしてしまったことについて心配することです。しかし、「悔い改め」は自分のしたことを考え直し、そこから離れ、心と思いと生活とを神様に向けることです。(2.コリント7:10)

 第二に「悔い改め」とは、罪を「あなたの」罪として認めることです。私たちは、人の罪にはすぐ気づき、

「あの人も同じことをしているのに、なぜ私だけが悔い改めなければならないの」と考えたり、「私は不幸な環境にあったからやむをえなかった」と言って、自分を正当化したり、責任を転嫁しがちです。誰の罪でもない私の罪が私の問題なのだと認めることが必要です。

 第三に「悔い改め」や「告白」は、まず神様に向けられるべきだということです。あなたの罪は、それが、きわめて個人的なものであれ、親しい家族や友人に対するものであれ、神様の正義と聖さを傷つけたのです。人の前での「恥」が「罪」なのではありません。「わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました」(詩篇51:4)との告白を神様は求めておられます。

 第四に「告白」は自分の感情の「はけ口」ではありません。自分の感情をさらけ出すことによって、ある種の精神的な解放(カタルシス)を味わうことができますが真実な告白は、それとは違って、自分に対してや、他の人に語るのでなく、神様に向かって語ることです。

 第五に「告白」は、あなたが傷つけた人々に対してもなされなければなりません。もちろん、こうした告白が功績となってあなたを救うのではありません。しかし、神様に対する本当の悔い改めからは、他の人への謝罪が当然生み出されてくるはずです。人の強制ではなく、神様の大きな愛と恵みに促されてしましょう(ヤコブ5:16)。悔い改めと告白は信仰になくてならないものです。このことによって、あなたは、神様の前に責任ある人生を歩み出すことができるのです。



    変化を保つ方法
      ―バイブルクラスの学びより―

 イエス・キリストを信じることによって、あなたは神のこどもとして生まれ変わりました。神様の救いは完全ですが、神様の救いのすべてを救われた瞬間に一度に体験するのではありません。赤ちゃんは完全なものとして生まれてきまが、その後成長し、成長するにつれて、与えられた命の素晴らしさを発揮していきます。それと同じように、あなたも神様の力によって成長し、いよいよ神様のこどもらしくなっていくのです。「わたしは成長過程にある」ということを覚えておくのは、クリスチャンのセルフエスティームにとって大切なことです。

 あなたの内にはじまった変化を保つには、何よりも、神様のお力に頼る信仰が必要です。赤ちゃんは母親の胎内で母親につながって命を保っていますが、生まれ出たらもう母親とのつながりがなくなってしまうのでしょうか。そんなことはありません。今度は肉体的なつながりばかりでなく精神的なつながりを深め、母親から育てられていくのです。神様に生んでいただいたあなたも、もっともっと神様との交わりを深めなければなりません。自分で自分を成長させるのでなく、神様に成長させていただくのですから。

 そして、赤ちゃんが母親の語りかけを聞きながら成長していくように、信仰は神様のお言葉に聞くことによって育てられていきます。聖書は私たちを救いに導くとともに、救われた者を整えていく力を持っています(2.テモテ3:14-17 )。多くの人は、そのことに気づいていませんが、私たちの行動や感情は、実は、理性的なものから来ています。神様を認めようとしない誤った世界観や人生観から、誤った行動や苦々しい感情が出てくるのです。それらをただしてくれるのはみことば以外にありません。また、あなたは、みことばをたくわえることによって、人をがっかりさせたり、自分が落ち込んでしまう否定的なメッセージを、避けることができます。

 そして、変化を保つには、一度に全部をやろうとしないで、一歩づつ、一つづつやっていくことです。捨てるべき悪習慣を一つづつ捨てることによって、良い習慣をひとつづつ身につけることができます。やさしいことで成功を味わうことによって、もっと難しいことに取り組むことができます。そのようにして、セルフエスティームを高く保っていきましょう。