子羊の血

ペテロ第一1:18-21

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1:18 あなたがたのよく知っているとおり、あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、
1:19 きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである。
1:20 キリストは、天地が造られる前から、あらかじめ知られていたのであるが、この終りの時に至って、あなたがたのために現れたのである。
1:21 あなたがたは、このキリストによって、彼を死人の中からよみがえらせて、栄光をお与えになった神を信じる者となったのであり、したがって、あなたがたの信仰と望みとは、神にかかっているのである。

 最近、ご覧のような絵を見ました。子羊が屠られ、その喉元から血が流れ出ています。そしてその血のしみが世界地図になっています。この絵は、イエス・キリストが、犠牲の小羊となって、十字架の上でその血を流し、命をささげてくださったことを表わしています。子羊の血が世界地図の形になっているのは、世界中の誰もが、ひとり残らず、イエス・キリストの血によって、その罪を覆われ、赦され、きよめられることができるということを表わしています。

 皆さんにこの絵をお見せしたのは、この絵が今朝の聖書の箇所をみごとに描いているからです。今朝の聖書は「あなたがたが先祖伝来の空疎な生活からあがない出されたのは、銀や金のような朽ちる物によったのではなく、きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血によったのである」と教えています。イエス・キリストは聖書では「神の小羊」と呼ばれています。初代教会の賛美からはじめて現代の賛美にいたるまで、多くの賛美が主イエスを「神の小羊」としてたたえています。イエス・キリストが「神の小羊」と呼ばれているのにはどんな意味があるのでしょうか。また、神の小羊が流された血にはどんな力があるのでしょうか。聖書でいちばん大切なこのことを、きょう、しっかりと確認しておきたいと思います。

 一、神の小羊

 まず、主イエスが「神の小羊」と呼ばれていることの意味を学びましょう。旧約時代に、人々は、罪の赦しを得るために動物の犠牲を神にささげました。聖書にあるように「罪の支払う報酬は死」(ローマ6:23)です。ですから、人々が罪の赦しを得るためには、罪の刑罰を身代わりとなって引き受け、血を流して死んでいくものが必要だったのです。人々は、自分の家畜の中から一番良いものを選び、注意深く吟味してからそれを神にささげました。しかし、どんなに完全な犠牲であっても、動物の犠牲には全世界の人々の罪の身代わりになる力はありません。たとえ、誰かがその命を捧げたとしても、人に罪があるかぎり、他の人の身代わりとなって、その罪を引き受けることはできません。人はそれによって自分自身さえ救うことができないのです。人間が神に対して罪を犯したのですから、償いをするのは人間の責任です。ところが、人間には、それをする力がないのです。人類は、みずからの罪に縛られ、そこから抜け出すことができないでいたのです。

 それで、神はご自分の御子をこの世に送ってくださいました。神のひとり子が、人となって、この地上に生まれ、育ち、人々を教え、力ある神のわざをなさいました。罪のないお方が、十字架とともに、人の罪をも背負われました。祭壇の上で血を流して死んでいく犠牲の子羊のように、その血を流し、命をささげられました。神は、わたしたちのために、主イエスを「神の小羊」として遣わしてくださったのです。これが、聖書の伝える「グッド・ニュース」、「福音」です。わたしたちは、この福音を何度も聞いてきました。しかし、何度聞いても、心が動かされます。それは、ここに、神の愛があるからです。聖書は言っています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)

 二、子羊の血

 次に、子羊の血の力について考えてみましょう。聖書がいうように、子羊の血は、わたしたちを、罪から「あがない出す」力を持っています。「あがなう」、「あがない」は、聖書に繰り返し出てくる大切な言葉ですが、これには、「奴隷を買い戻す」という意味があります。

 古代には、借金を返せない人が、他に何も売る財産がないとき、自分の身柄を売りました。何年間か期間を決めてですが、借金の返済の代わりに、負債を負っている人の奴隷になって、そこで働くのです。また、征服された国の人たちは、征服した国の奴隷にされました。奴隷のすべてが過酷な労働を強いられたわけではありませんでしたが、奴隷である以上はどんな権利も保証されず、自由がありませんでした。

 同じように、罪は人をその奴隷にします。自分では自由に行動し、気ままに生活しているように見えて、罪は、人を欲望に縛りつけ、神から引き離すのです。アルコール依存症の人は、自分がアルコールに支配されていることを認めようとはしません。「いつでもやめられる」とうそぶきますが、実際は、自分でやめられなくなっているのです。罪とは、そういうものです。好きなことをして楽しんでいるように見えても、罪は、人をほんとうに意味のあることから遠ざけるのです。きょうの箇所に「先祖伝来の空疎な生活」とありましたが、罪に縛られている間は、意味のある生活、目的のある人生を見つけ出すことができないのです。主イエスが言われたように「すべて罪を犯す者は罪の奴隷」(ヨハネ8:34)です。

 古代の奴隷は、「あがない金」(ransom)というものを払うことによって解放されました。自分でそれを貯めて自由になった人もいれば、他の人に支払ってもらった人もありました。人の奴隷からは、金銀で解放されます。しかし、罪の奴隷からは、どんなに金銀を積んでも、解放されることはありません。わたしたちを罪から解放するものは、金銀よりも、尊く価値あるもの、「神の小羊」であるイエス・キリストの血の他ありません。もし、他に人を罪から「あがなう」ものがあるなら、神の御子は十字架にかかる必要はなかったのです。「神の子羊」の血は、わたしたちを罪の奴隷から買い戻すものです。罪の奴隷から解放するものです。主イエスが「あがない金」のすべてを支払ってくださったのです。わたしたちは、「神の子羊」の血によって、罪の奴隷から神の子どもへと変えられ、「空疎な生活」から、目的のある人生、意味のある生活へと移されるのです。みなさんは、その喜びにあずかっているでしょうか。

 三、罪のゆるし

 「神の小羊」がひとたび流された血は、全世界のすべての人のために流されました。「神の小羊」の血の力からもれる人は誰もいないのです。では、なぜ、罪から解放されて、罪の赦しの喜びに生かされている人もいれば、依然として「先祖伝来の空疎な生き方」にとどまっている人もあるのでしょうか。それは、この子羊の血の力を受け取るために、わたしたちの側でしなければならないことがあるからです。それは、信仰をもってゆるしを求めることです。罪のゆるしは自動的に天からくだってくるものではなく、求めて与えられるものだからです。ヨハネの第一の手紙1:8-9にこうあります。「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」罪の赦しを受けるには、まず、自分に罪があることを「認める」(Acknowledge)ことが必要です。次に、神が、神の小羊であるイエス・キリストの身代わりの犠牲によって、わたしたちの罪を赦し、きよめ、そこから解放してくださると「信じる」(Believe)ことです。そして、自分の罪を神の前で「告白すること」(Confess)です。「告白する」ことは、罪から離れる行動の第一歩です。告白から行動が生まれます。Acknowledge, Believe, Confess の頭文字をとると「ABC」になります。これは「信仰のABC」です。

 このことは、言葉で言えば簡単ですが、実行するのは容易いことではありません。それが神に対してであれ、人に対してであれ、真実にお詫びするのには勇気がいります。その勇気がなくてごまかしてしまう場合も多いのです。しかし、そのことを実行するとき、言葉では言い表せない平安がやってきます。「ひとりで祈れないから、先生、祈ってください」といってやってきた人といっしょに、罪の告白をして祈りあったことが何度もあります。祈り終わって、立ち上がるとき、その人たちは、やってきたときとはまるで別人のような表情に変わっているのです。神のゆるしを受けて顔が輝いていました。「神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる」という神の言葉が真実だということを、何度も体験してきました。

 罪のゆるしを願うことは、バプテスマを受けるときに、一度だけすれば良いということではなく、日毎にすることです。日々にゆるしが必要だからです。主イエスが血が流されたのはただ一度かぎりで、主イエスは何度も十字架にかかられるわけではありません。しかし、主イエスの十字架を覚える「晩餐式」は何度も繰り返されます。それは、主イエスの流された血が、今も、わたしたちの罪を赦し、きよめ、新しい生活へと導く力があることを覚えるためです。その力にあずかるためです。日ごとに悔改めが必要ですが、主の晩餐の前には、真剣な祈りをもって「罪を認め、ゆるしを信じ、告白する」という「信仰のABC」を実行したいと思います。もし、今までそのことができなかったなら、このレントの期間に、時間をかけて神の前に出たいと思います。主イエスを「神の小羊」として仰ぎ、ゆるしときよめを体験する幸いな時としたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、わたしたちを罪からあがなうため、御子を選び、犠牲の子羊としてくださいました。この大きな愛を心から感謝いたします。ですから、わたしたちは悔改めと信仰をもってあなたのもとに近づきます。あなたに近づくわたしたちに、赦しの恵みを、きよめの力を豊かに与えてください。神の小羊、主イエスのお名前で祈ります。たちに、赦しの恵みを、きよめの力を豊かに与えてください。神の小羊、主イエスのお名前で祈ります。

3/13/2016