2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。
2:38 そこで、ペテロは彼らに言った。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。
2:39 この約束は、あなたがたに、あなたがたの子どもたちに、そして遠くにいるすべての人々に、すなわち、私たちの神である主が召される人ならだれにでも、与えられているのです。」
先週は、イエスの昇天の意義を一緒に考えました。話し合いのとき、「昇天は、イエスの再臨を約束している」、「その時、私たちは先に世を去った愛する人たちと再会できる」、また、「昇天ののち、イエスは天で私たちのためにとりなしておられる」などの意見が出ました。しかし、そのときに話されなかった一つの大切なことがありました。それは、「イエスが昇天されたので、聖霊が降られた」ということです。イエスは、弟子たちに言われました。「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(ヨハネ16:7)イエスが天に昇られたので、「助け主」である聖霊が、「救い主」であるイエスと入れ替わるようにして天から降りてこられたのです。
それがペンテコステです。ペンテコステの日、エルサレムに集まっていた120名の弟子たちが聖霊を受けたばかりでなく、ペテロの説教を聞いて信じた3000人の人々もまた、聖霊を受けました。では、これらの人々はどのようにして聖霊を受けたのでしょうか。聖霊を受けるにはどうしたらよいのでしょうか。そこには、何か特別な方法があるのでしょうか。きょうの箇所から学びましょう。
一、神の言葉によって
どうしたら聖霊を受けることができるか。第一に、それは、神の言葉に聞くことによってです。聖書は、「ですから、信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現するのです」(ローマ10:17)と教えていています。
ペンテコステは、春の収穫を感謝するユダヤの「初穂の祭り」で、ユダヤでは「七週の祭り」と呼ばれます。過越祭や仮庵祭とならんで、律法によってユダヤの人々が必ず守らなければならないと定められた三つの祭りの一つでした(申命記16:16)。しかし、どの宗教行事もそうですが、ユダヤの祭りも、長い年月の間にその意義が忘れられ、年中行事の一つになっていました。すべての人が真剣に神や神の言葉を求めて、祭りに参加していたわけではありませんでし、毎年繰り返されるペンテコステの祭りで神の言葉が力強く語られることもありませんでした。しかし、この年のペンテコステは違っていました。ペテロによって神の言葉が語られ、人々はそれを聞いたのです。
その日の朝、エルサレムに激しい風が吹く音が響きました。人々が、その音に引き寄せられて弟子たちのいるところに来ると、そこでは、120人もの人たちがそれぞれ、様々な言語で神を賛美していました。しばらくしてから、弟子たちの中からペテロが立ち上がり、人々に語りかけました。ペテロがイエスの十字架と復活について話すと、人々は静かにそれに聞き入るようになりました。イエスが十字架にかけられてからまだ2ヶ月も経っていないときでしたから、人々は皆、そのときのことを覚えていました。ペテロは、「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いでくださったのです」(使徒2:33)と言って、自分たちが聖霊を受けたのは、イエスが十字架から三日目に復活され、40日後に天に戻られた結果であると語りました。
ペテロはいくつかの聖書の言葉を引用して、人々に語りました。人々はペテロが引用した聖書の言葉を知ってはいましたが、それが何を意味していたのか分かりませんでした。けれども、ペテロの説教によって、それらが、イエスの復活や昇天、また聖霊の降臨を預言していたこと、また、それがきょう、この日に成就したことを知りました。人々は、聖書が説き明かされ、イエスの十字架の意味を教えられ、復活が事実であったことを知って、それから聖霊を受けました。人は、聖霊を受けるためにはまず、神の言葉を聞かなければならないのです。
使徒の働きは、サマリアの人たちが、まず、「神のことばを受け入れ」、それから聖霊を受けたと言っています。(使徒8:14)。また、ローマの百人隊長コルネリウスは、神の言葉を聞こうとして、ペテロを招きました。ペテロが到着したとき、彼はいいました。「今、私たちはみな、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、神の御前に出ております。」(使徒10:33)聖霊は、人々が神の言葉を聞いている間に、人々の上に降りました(使徒10:44)。エペソにいたバプテスマのヨハネの弟子たちは聖霊について何も知らなかったのですが、パウロから、福音を正しく説いてもらい、それを聞いて、聖霊を受けています(使徒19:1-7)。このように、聖霊を受けることは神の言葉、しかも、イエス・キリストについての言葉、福音に聞くことから始まるのです。
二、信仰によって
第二に、聖霊を受けるには信仰が必要です。
ペンテコステの日、ペテロは、その説教の締めくくりに、「ですから、イスラエルの全家は、このことをはっきりと知らなければなりません。神が今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:36)と言いました。イエスは、まず、イスラエルの救い主としておいでになったのに、イスラエルの人々は、自分たちの救い主を拒否したのです。ペテロの説教を聞いていたほとんどの人は、直接イエスを死に追いやるようなことはしなかったでしょう。むしろ、イエスに同情した人のほうが多かったでしょう。しかし、その人たちも、指導者たちの言うがままになることによって、イエスを斥けるという大きな罪を犯し、そのことに気付きました。人々はペテロの言葉に心を刺され「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」(37節)と言って、救いを求めました。
聖書が教える「罪」は、律法を破ったり、儀式を守らないということだけのものではありません。言葉や行いに表れるものだけでなく、人の心の奥に潜む罪深い性質や、神に対する頑固な態度などを「罪」、また「罪の根」であると教えています。「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と叫んだ人々は、おそらく、遠くから何日もかけてエルサレムに巡礼の旅をしてきた信心深い、いわゆる、「善男善女」だったでしょう。その人たちは、律法や儀式を守っていましたが、神ご自身と神が遣わされた救い主を信じ、愛し、仕えることをしていませんでした。「宗教」を守ってはいても、「信仰」に生きていなかったのです。「宗教を守る」ことと、「信仰に生きる」ことは別ものです。宗教を守るというのは、組織や伝統に対して忠誠を誓い、自分の信念を保つだけのことです。神が私たちにお求めになるのは、「宗教を守る」ことではなく、神への「信仰に生きる」ことです。
ペテロは、自分の罪に気付いた人々に「悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と言いました。まず、「悔い改めて」と言っています。信仰は、悔い改めから始まるからです。「悔い改める」とは、たんに後悔することではなく、間違っていたと気付いたところから、神に立ち返ることを意味します。
神に対する罪に気付いたなら、その罪の罰から逃れるために神から逃げ、隠れればいいのでしょうか。いいえ、誰も神から逃げ隠れすることはできません。悔い改めとは、神から逃げ隠れすることをやめて、神の前に「私は罪を犯しました」と降参してしまい、神に立ち返ることなのです。
イエスは、ただ一人、私たちを正しく裁かれる方であるのに、ご自分に罪を犯した者たちを追いつめることをなさらず、救いの手を広げて、赦しへと招いておられます。そのイエスに向かって、ただそのあわれみを信じて、「救ってください」とすがりつくこと、それが、信仰です。
ペテロはその信仰をバプテスマ(洗礼)によって表すために、「バプテスマを受けなさい」と言っています。信仰を持つ者がバプテスマ(洗礼)を受けることは、イエスが命じられたことで、大切なことです。それと同じように大切なことは、バプテスマ(洗礼)によって表されるイエスに対する信仰です。「イエス・キリストの名によるバプテスマ」は、イエスをキリスト(救い主)、また主であると信じて、その信仰を言い表すことを意味しています。私たちは、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖霊を受けるのです。
三、恵みによって
第三に、私たちは、聖霊を「恵みによって」受けます。ペテロは「そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と言っています。聖霊は、神が与えてくださる「賜物」(ギフト)です。ここで「賜物」と訳されている言葉には "free gift" という意味があります。聖霊は、「無代価で与えられるもの」です。そして、「無代価で与えられるもの」なら、それは、神とキリストの恵みによって与えられるものということになります。ローマ5:15に「神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです」とありますが、英語の聖書(KJV, ESV)では、この「賜物」は "free gift" と訳されています。
神は、この地球を素晴らしく造り、それを人に与えてくださいました。アダムとエバは、それをエデンの園で楽しみました。しかし、彼らは罪によって神との生きた交わり、霊の命を失ってしまいました。イエスが「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか」(マタイ16:26)と言われたように、人類はこの世界の様々なものを得ても、それに満足できず、与えられたものを感謝し、それを楽しむことができないでいます。どんなに多くの物を手に入れても、たましいに平安を持つことができないでいます。
神は、そんな人間をあわれんで、ご自分の御子、御子の命を与えてくださいました。ご自分のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛された神は、聖霊をもお与えになり、聖霊によって私たちを生かしてくださったのです。
神は、いつでも、私たちに一番よいものを与えようとなさいます。しかし、この世のどんなよいものも、また、天にある栄光に満ちたものも、神ご自身を超えることはできません。造られた物は造り主にはとうてい比べられません。神は、造られたものの中から最高のものを人に与えるだけでは満足されず、ご自身を、御子イエスを、聖霊を私たちにくださいました。聖霊は、神からの恵みの「賜物」です。
聖霊が恵みによるのであれば、私たちの功績によってではないのは当然です。聖霊を受けるには、御言葉に聞き、悔い改めて神に立ち返り、イエス・キリストを信じるというステップが必要です。しかし、私たちがそのステップを踏むことができたのも、じつに神の恵みによってでした。聖霊が私たちの心を照らし、神の言葉を理解することができるようにしてくださいました。聖霊が、私たちに罪を示し、悔い改めを促し、イエス・キリストを信じる信仰へと導いてくださったのです。
聖霊を受けた人が、聖霊との正しい関係を保つステップも、全く同じです。聖霊の助けを受けて、聖書の理解を深めていくこと、悔い改めと信仰によって日々を歩むこと、神の恵み、あわれみを求めて生きること、それ以外に聖霊によって歩む道はありません。私たちは、信仰が飛躍的に成長したり、一瞬にして神との深い交わりを体験することができるような特別な方法を求めることがあります。もちろん、特別な体験はあり、信仰の生活の中で何度か経験するでしょう。しかし、それはあくまで「特別」なもので、毎日繰り返されるとは限りません。聖霊の働きを豊かに受けるのに、インスタントな方法、マジックのような秘訣はありません。御言葉、信仰、恵み。神が私たちに与えてくださったステップを大切にし、日々の信仰の歩みを積み重ねること、それが、私たちを聖霊の恵みと力へと、さらに豊かな聖霊の体験に導くのです。
(祈り)
父なる神さま、きょう、聖霊が御言葉に聴くことにより、イエスを信じる信仰により、またあなたの限りない恵みによって与えられることを学びました。しかし、私たちは御言葉を理解するのにくらく、イエスを信じ通す力のない者たちです。聖霊によって私たちの心を照らし、私たちを強め、助けてください。日々の生活に聖霊がともにいてくださることを求めて歩む私たちとしてください。聖霊を恵みの贈り物として与えてくださったあなたの大きな愛に感謝し、主イエス・キリストのお名前で祈ります。
6/8/2025