デボーション

使徒7:54-60

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7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 一、デボーションの習慣

 クリスチャンは、日曜日の礼拝だけでなく、毎日、個人で神を礼拝し、祈る時を持っています。おおやけの礼拝は Liturgy、こうした個人の礼拝は Devotion と呼ばれてきました。デボーションは、朝、仕事を始める前と、夕べ、一日の仕事を終えてから守るのが、古代からの慣わしです。日が暮れたら、あとは、ローソクやランプの明かりで本を読むことしかできなかった古代と違って、現代は、朝から夜遅くまで忙しい時代です。人々は、慢性的に睡眠不足で、いつも疲労を感じています。デボーションを守るには、朝早く起きるのが一番良いことが分かっているのですが、どうしても、夜遅くまで起きているので、朝、デボーションを守れない人も多いかと思います。「私はデボーションは苦手ですが、寝坊(ネボー)ションなら得意です。」と言った人がいますが、それでは困ります。朝が苦手な人が言いました。「夜ベッドに就く前にデボーションをしようとするのですが、『お祈り』が『お居眠(いね)り』になってしまうんですよ。」これも困りますね。

 デボーションを守るには、毎日の生活のスケジュールを、デボーションを守ることができるように変えていく必要があります。「洗礼準備会」では一週間のスケジュールをチェックする宿題があるのですが、多くの人が、スケジュールを少し調整するだけで、デボーションの時間を持つことができることに気付いてくれました。ひとりで静かに祈ることができる時間と場所は、どんなに忙しい人にも、かならず、どこかにあるはずです。ある人は、ベッドから起きたら、着替えたり、顔を洗ったりしないですぐに聖書に向かいます。デスクの前に座るとコンピュータがあって、Eメールをチェックしたくなるので、その人は、別に小さなテーブルを用意して、そこに聖書だけをおき、そこで祈るそうです。自分の部屋や家庭のどこかに、こうした祈りのコーナーを設けるのは良いアイデアだと思います。また、ある人は、ご主人を職場に、こどもを学校に送り出したあと、お皿洗いや片付けは後回しにして、デボーションを持っています。ある人は、家では祈れないので、少し早く職場に行き、自分のオフィスで祈っています。オフィスで祈れないので、駐車場で、車の中で祈ってからオフィスに入るという人もいました。通勤の車の中で、デボーション用のCDを聞いている人もいます。ウェブページにある私の礼拝メッセージをMP3プレーヤーで聞いてくれている人もいます。ある出張の多い人が「飛行機は、私のデボーション・ルームです。天に近いところですから、素晴らしいデボーションができます。」と言っていました。

 あるとき、ある人から、「朝起きてから夜寝るまで、まとまった祈りの時間をとることができません。どうしたら良いでしょうか。」という相談を受けました。私は「もし、まとまった祈りの時間が持てないなら、小刻みに祈りの時間を持ったらどうでしょうか。」と答えました。たとえば、職場に着いて仕事を始める前に聖書を読む。お昼休みに家族のため、教会のために祈る。職場から帰る前、一日の仕事を反省しながら、自分のために車の中で祈る。それぞれが5分づつでも、一日15分のデボーションを守ることができます。忙しい仕事の最中でも、目を閉じて、心を神に向けるとき、心の中のサンクチュアリーでデボーションをささげることができます。多くの人は、そのような祈りによって、忙しい中でも神とのまじわりを絶やさず、信仰を保ってきました。そして、デボーションを守ることを優先させて、一日のスケジュールを組み立て直してきました。デボーションは神を信じる者に与えられた特権です。この世の喜びはいつかは色あせていきますが、永遠の神とまじわる喜びは永遠に変わることはありません。デボーションは、私たちのこころから喜びを奪い取ろうとする、困難や、失望や、落胆から私たちを救うものです。

 建国の父として尊敬されているジョージ・ワシントンは「ひざまずいて祈っている人」として知られていました。ワシントンは、独立戦争の間も、毎日、兵士たちを集めて祈りの時を持ちました。家にいるときには朝四時に起きて、誰にも妨げられないで祈りの時を過ごしたといわれています。また、ワシントンは家にいるときは、夕食後、たとえ、どんなに楽しい団欒のときを過ごしていたとしても、夜九時になると、かならずキャンドルを持って自分の書斎に引きこもりました。ワシントンの甥が、好奇心から、叔父の部屋を覗いてみると、ワシントンは、椅子の前にひざまずいており、その椅子には聖書が開かれていました。かっきり10時まで、その祈りが続いたそうです。ワシントンは20歳の時から、こうした祈りの生活に入ったと、彼が書き遺した「祈りの日記」にしるされています。

 Devotion のもとの言葉、devote という動詞には、「時間を充てる、時間を割く、時間を費やす」という意味があります。デボーションとは、まず、時間を神にささげることから始まります。ジョージ・ワシントンのように、朝、夕一時間づつデボーションを持つのは、誰もが、最初から出来ることではありません。まずは、一日15分から始めましょう。最初は、その15分が長く感じられるかもしれませんが、そのうち、15分では足らなくなっていくのを体験するでしょう。デボーションの良い習慣を身につけることは、クリスチャンにとって生涯の宝です。

 二、デボーションの内容

 デボーションの習慣が身に着いたなら、次は、その内容を深めていく努力をしましょう。そうでないと、デボーションが、形だけのものになり、「マンネリ」化してしまいます。devote には、「時間を割く」というだけでなく、「心を向ける」、「専念する」、「集中する」、「自分を捧げる」という意味があります。デボーションは、たんなる「お勤め」ではなく、神との人格的な深いまじわりです。Benedict Groeschel というクリスチャンの心理学者が「デボーションとは、キリストが、私を知り、私をケアしてくださるという、生きた、個人的、また、人格的な確信である。」と定義していますが、デボーションにおいては、この確信に到達し、また、それに導かれて、神を礼拝し、キリストをあがめることが大切なのです。

 今朝の箇所には、キリストに対するきわめて個人的、人格的なデボーションが示されています。これは、教会の最初の殉教者ステパノの祈りです。ステパノは、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」と言いました。ステパノには実際に天が見えたのです。聖書のほかの箇所には、イエス・キリストが神の右に「座っておられる」とありますが、ステパノには、イエス・キリストが「立っておられる」のが見えました。それは、イエス・キリストが、ステパノのたましいを天にひきあげるために身を乗り出しておられる姿でした。人々は、ステパノを打ち殺すたに、その手に石を握りしめ、ステパノに押し迫っていました。大勢の敵対する者の中で、ステパノはたったひとりでした。誰も彼を守る者はありませんでした。しかし、ステパノは確信したのです。天におられるイエス・キリストが、決して自分を見捨てられないと。キリストは、自分を知り、自分と共にいて、自分を天に迎えようとしておられる。この確信があったからこそ、主イエスが「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と祈り、また、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と言って息をひきとられたように、ステパノも「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈り、「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と言って、主のもとに帰ることができたのです。

 私たちは、ステパノや古代のクリスチャンのように、実際に殉教することはないかもしれませんが、非難や中傷、敵意や無視などという、さまざまな「石」を持った人々に取り囲まれることがあります。精神的にも、肉体的にも、あらゆる状況のどこにも出口がないように見えることもあります。そんなとき、デボーションは、私たちに、四方八方がふさがれていても、天が開いていることを示してくれるのです。キリストが天におられるということは、キリストがすべてを知り、支配しておられ、神を愛する者のために万事を益にしてくださるということを教えるものです。しかし、この世の戦いの中に投げ込まれ、この地上でもがいているときには、天がはるか遠く感じられることがあります。みなさんにも、そんな体験があったことでしょうし、今、それを体験している人もいるでしょう。しかし、デボーションに深く導かれるとき、天と地は、神の愛にとって、かけ離れて遠いものではないことが分かるのです。聖書は「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」(イザヤ57:15)と書いています。アウグスティヌスは、このことを解説して「彼は天におられ、われわれは地上にいる。空間を問えば、彼は遠く離れておられる。しかし、愛を問うなら、彼はわれわれのただ中におられる。」(説教395,2)と言いました。デボーションは、神が天を押し曲げて私のところに来てくださる、イエス・キリストが天から身をかがめて私に触れてくださるということを確信させるものです。ある人が、絶望のあまり、"God is nowhere."(神はどこにもいない)と言いました。しかし、デボーションを通して、"God is now here."(神は、今、ここにおられる)ということを見出しました。私たちが神の臨在に触れるまで、また、神の臨在が私たちに触れてくださるところまで、デボーションを深めていきましょう。

 さきほど話しましたジョージ・ワシントンの祈りの日記には「神さま、私の罪をお赦しください。東が西から遠いように、それをあなたの前から取り除いてください。」という祈りがあります。ジョージ・ワシントンほど、人格的に優れた人は多くはなく、自分を誇っても当然のように思うのですが、彼は、自分の罪を知る人であり、謙虚に神の前に生きた人でした。ワシントンはこうも祈りました。

「私を、御子イエス・キリストのいさおしのゆえに受け入れてください。私は、私の罪の赦しを願って、あなたを呼びましたが、それは冷たい心で、不用意なものでしたから、その祈りが私の罪となってしまいました。私は、あなたの赦しをほんとうに必要としています。私は、あなたの聖なることばを聞きました。しかし、私の霊は死んでいました。私は、無益で、すぐに忘れてしまう聞き手でした。…私の罪を、あなたの御子の完全な従順によっておおってください。イエス・キリストが私のために十字架でささげてくださった犠牲のゆえに、私がささげる犠牲があなたに受け入れられるものとなりますように。私の思いと、ことばと、わざとを導いてください。私の罪を子羊の汚れのない血によって洗ってください。私の生まれつきの腐敗の残りかすから私の心を聖霊によってきよめてください。福音の慕わしい約束によって、私の信仰を増してください。」

なんと深い祈りでしょうか。ワシントンは、毎日、朝・夕に一時間づつ祈る人でした。私たちなら、「神さま、私はこんなにたくさん祈りましたよ。」と神の前にも誇ってしまうかもしれません。ところが、彼は、自分の祈りが不十分なものであり、みこころにそぐわない祈りをすることによって罪を犯してしまいましたとさえ言っています。ワシントンはまた、聖書をよく読み、学んだ人でした。しかし、神のことばを冷ややかな心で聞いてしまったことを悔いているのです。神に近い人ほど、自分の罪がよくわかります。自分に「生まれつきの腐敗の残りかす」があることに気付いて、真剣に罪の赦しと、きよめを願うのです。私たちもデボーションによって、神のきよい光に心の奥底までも照らされていきたいと願います。

 ジョージ・ワシントンは「祈りの人」でした。祈りを習慣にした人でしたが、その祈りは決して「習慣的な祈り」ではありませんでした。それは、深い悔い改めから生まれた、真実な祈りでした。ワシントンばかりでなく、偉大な働きをした多くの人々が、規則正しく祈りの時を持っており、神との深いまじわりを持っていたことが知られています。彼らの働きの原動力は、そのデボーションにありました。新しい年のはじめ、まだデボーションをはじめていない人は、それを始めましょう。何度やっても失敗してきた人がいるでしょうか。願いがあれば、神が助けてくださいます。あきらめないで、何度でも、デボーションをやり直していきましょう。すでにデボーションが習慣となっている人は、それが、内面的に深められていくことを神に願い、求めましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、聖書に、おおやけの礼拝とともに個人的なデボーションを数多く記録してくださいました。また、あなたは、教会がデボーションの伝統を守り続けることができるようにしてくださいました。私たちのデボーションが、聖書と教会の霊的な資産によって導かれ、より豊かなものになりますように。日曜日ごとのおおやけの礼拝が、日ごとの個人のデボーションを導くものとなりますように。また、個人のデボーションが深められることによって、おおやけの礼拝が、より力強く、喜ばしく、そして美しく、あなたの栄光を表わすものとなりますように。父とともに御座におられるイエスのお名前で祈ります。

1/18/2009