バルナバの役割

使徒9:26-27

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9:26 エルサレムに着いて、サウロは弟子たちの仲間に入ろうと試みたが、みな、彼が弟子であるとは信じず、彼を恐れていた。
9:27 しかし、バルナバはサウロを引き受けて、使徒たちのところに連れて行き、彼がダマスコへ行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を彼らに説明した。

 聖書はいろんな方法で学ぶことができますが、はじめて聖書を学ぶ人には、聖書に登場する人物を一人づつとりあげて、その人がどんな人だったか、どのように神を信じ、神に従い、仕えたかを学ぶのは、とっつきやすい方法です。これは、長年、聖書を学んでいる者にも多くのことを教えてくれるものです。ステパノとピリポに続いて、きょうは、バルナバについて学びます。聖書はバルナバについて、「彼は立派な人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった」(使徒11:24)と言っています。ステパノやピリポと同じように「聖霊に満たされて」いた人でした。「聖霊に満たされる」とは、言い換えれば「御霊の実」に満たされていることです。御霊の実は、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」で、バルナバはそのすべてを豊かに持っていました。きょうは、バルナバが持っていた御霊の実から、「善意」、「親切」、そして、「誠実」の三つをとりあげて学びます。

 一、善意(Generosity)

 バルナバの名が最初に出てくるのは使徒4章です。そこには、こう書かれています。「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。地所や家を所有している者はみな、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。その金が、必要に応じてそれぞれに分け与えられたのであった。キプロス生まれのレビ人で、使徒たちにバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、所有していた畑を売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。」(使徒4:34-37)エルサレムでは、イエスをキリストと信じる弟子たちはユダヤのコミュニティから追放され、貧しい人たちはたちまち生活に困るようになりました。それで教会は、資産を持っている人たちの献金によって、貧しい人たちを援助しました。バルナバも、自分の畑地を売って、その代金を献げました。バルナバは物惜しみせずに与える人でした。

 聖書は献金についてコリント第二9:7でこう教えています。「一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。」献金は惜しむ心でするものでも、強いられてするものでもありません。それは誰かに指示されたり、誰かを真似てするものでもありません。献金は、その人の善意から出たものでなければならないのです。一般社会でも、街頭募金をするとき、「皆さんの善意をお寄せください」といって寄付を呼びかけます。一人ひとりが寄付する額は小さくても、人々の善意が集まると、大きな力になります。エルサレム教会では、バルナバのように大きな額を献げた人ばかりでなく、わずかしか献げることのできなかった人もあったでしょう。しかし、善意によって献げられたものを、神は大きく祝福してくださいました。「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」とある通りです。善意に満ちておられる神は、私たちの善意を祝福して用いてくださるのです。

 「善意」は、英語では “good will” とも、“generosity” とも言います。私がアメリカに来て最初に覚えた英語のひとつは “generosity” でした。惜しまずに与えるという意味です。教会の献金やチャリティへの募金など、アメリカ人は、じつに惜しまずに与えます。2011年3月11日の東日本大震災のときにもアメリカ軍は8000万ドルの予算を使って、“Operation Tomodachi” を展開し、いち早く支援をしました。アメリカには政府にも、教会にも、民間にも、こうした “generosity” があふれており、それによって、多くの国々を助け、宣教師を送り、福祉を支えてきました。それは、アメリカの誇りです。この “generosity” は、聖霊の実である「善意」から生まれ出たものです。

 ニ、親切(Kindness)

 次にバルナバが登場するのは、きょうの箇所、使徒9:27です。サウロ、のちのパウロは、ダマスコでキリストに出会い、イエスを信じる者となりました。サウロはエルサレムに戻り、弟子たちの仲間に入ろうとしたのですが、彼はそれまで教会を迫害してきた人でしたので、誰もが彼を警戒して受け入れようとしませんでした。そんなとき、真っ先にサウロを受け入れたのが、バルナバでした。バルナバはサウロを迎えて、じっくりと彼の証しを聞き、その証しが真実であることを確信しました。それで、バルナバは「サウロを引き受けて」、使徒たちのところに連れて行きました。「サウロを引き受けて」というのは、バルナバがサウロの身元引受人になったということです。バルナバは、サウロがダマスコに行く途中で主を見た様子や、主が彼に語られたこと、また彼がダマスコでイエスの名によって大胆に語った様子を、使徒たちに説明しました。もちろん、サウロ自身も証しをしたでしょうが、バルナバがサウロに代わって語ることによって、サウロに対して悪い印象しかなかったエルサレムの弟子たちも、心を開いて、サウロを受け入れることができたのです。

 このように、人と人との交わりには、仲立ちとなる人が必要です。そして、その仲立ちになる人には、限りないいつくしみが求められます。イエスは神と人との仲立ちとなってくださいましたが、そのためにご自分を、罪人の立場に置かれました。イエスは、私たちのためにご自分を犠牲にしてまで、神への道を開いてくださいました。あとは、私たちがその救いを受け入れ、悔い改めて、神に立ち返りさえすればいいのですが、そのことさえもできないでいる私たちのために、イエスは今もなお、懸命に父なる神にとりなしておられます。イエスが十字架の上で祈られた「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」との祈りを、イエスは、今も、私たち一人ひとりのために、とりなし、祈っておられるのです。イエスと共に、聖霊もまた、私たちたちのためにとりなしておられます。ですから、聖霊に満たされた人もまた、とりなしの人となるのです。必要であれば、人と人との仲立ちとなって働くのです。バルナバはその役割を立派に果たしました。

 きょうの箇所に続く28-30節には、こう書かれています。「サウロはエルサレムで使徒たちと自由に行き来し、主の御名によって大胆に語った。ギリシア語を使うユダヤ人たちと語ったり、論じたりしていたが、彼らはサウロを殺そうと狙っていた。それを知った兄弟たちは、彼をカイサリアに連れて下り、タルソへ送り出した。」サウロは、イエスを信じる者となって、仲間であった自分たちを裏切ったと、パリサイ人は考え、サウロを殺そうとしました。それで、エルサレムの「兄弟たち」はサウロを彼の故郷タルソへ逃してやりました。26節の「弟子たち」という言葉が、30節では「兄弟たち」に変わっているのに注意してください。これはエルサレムの弟子たちが、「元迫害者」であったサウロを「兄弟」として、愛をもって受け入れ、親切をつくしたことを教えています。バルナバがサウロに示した親切は、バルナバ一人の親切で終わりませんでした。それは他の弟子たちにも広がっていきました。サウロをエルサレムのパリサイ人から救ったのは、もとをたどれば、バルナバがサウロに示した親切であり、また、サウロとエルサレムの弟子たちを結びつけた仲立ちの働きだったのです。

 三、誠実(Faithfulness)

 その次にバルナバが登場するのは、使徒11:22です。迫害によってエルサレムを追われた弟子たちは、フェニキア、キプロス、アンティオキアまでも進んで行きましたが、ユダヤ人以外の人には、だれにも福音を語りませんでした。けれども、何人かのキプロス人とクレネ人の弟子たちは、アンティオキアでギリシア語を話す人たちにも語りかけ、イエスの福音を宣べ伝えました。すると、大勢の「異邦人」がイエスを信じました。そして、そのことはエルサレムの使徒たちの耳にも届きました。使徒たちは、アンティオキアで新しく生まれた「異邦人」の教会を励ますためバルナバを遣わしました。使徒11:22に「この知らせがエルサレムにある教会の耳に入ったので、彼らはバルナバをアンティオキアに遣わした」とある通りです。使徒たちは迫害の中にあったエルサレムの教会を守るためエルサレムにとどまらなくてはなりませんでしたので、バルナバが使徒たちの代理人として派遣されたのです。バルナバは、神からも、他の使徒たちからも、使徒としての努めを十分に果たすことができると信頼されていました。「信頼」にこたえるものは「誠実」です。バルナバは御霊の実の「誠実」(Faithfulness)を持っていた人でした。

 アンティオキアに到着したバルナバはどうしたでしょうか。使徒11:23に「バルナバはそこに到着し、神の恵みを見て喜んだ。そして、心を堅く保っていつも主にとどまっているようにと、皆を励ました」と書かれています。バルナバは、アンティオキアの教会にとっては「使徒」でしたが、使徒としての権威をふるうようなことはしませんでした。教会は人の力や権威によってではなく、神によって始まり、神の権威で支えられていることを、バルナバはよくわきまえていました。バルナバは、アンティオキアで教会を起こしてくださった神の力、権威、また、なによりも恵みに対して誠実でした。

 また、バルナバは謙虚な人でした。ほんとうに誠実な人は、かならず謙虚な人です。バルナバは、始まったばかりのアンティオキアの教会には、御言葉をしっかりと教えることのできる人が必要なことに気づきました。もちろんバルナバにも「教える」賜物は与えられていましたが、彼は、自分よりももっとその賜物を豊かに与えられている人を知っていました。そして、その人をアンティオキアの教会の牧師として迎えるため、遠くタルソまで出かけました。そうです。タルソにいたサウロを迎えに行ったのです。バルナバは、自分で何もかもしようとするのでなく、教会にとって最善の人材を得ようと努力しました。サウロの働きによってアンティオケア教会は大きく成長し、サウロを宣教師として派遣することができるまでになりました。サウロもまた、使徒パウロとなって、大きな働きに用いられました。

 このようにバルナバは、善意(generosity)と、親切(kindness)と、誠実(faithfulness)によって、人々を助け、人々の仲立ちとなり、教会に仕えました。バルナバがこうした役割を果たすことができたのは、聖霊によってでした。彼の善意、親切、誠実のすべては、「御霊の実」としての善意、親切、誠実で、それらは聖霊から来たものでした。

 「バルナバ」という名には「慰めの子」という意味があります。バルナバは、人々を温め、励まし、力づける「慰めの子」でした。じつは「バルナバ」はニックネームで、彼の本名は「ヨセフ」だったのですが、誰も彼を本名で呼ぶ人はありませんでした。誰もが彼をバルナバ、「慰めの子」と呼びました。バルナバは、本来の慰め主、聖霊に満たされることによって、聖霊の慰めを人々に分かち与えたのです。

 私たちもバルナバに見倣い、自分に与えられた役割を果たしたいと思います。もちろん、バルナバに与えられた役割と私たちに与えられた役割とは違います。しかし、喜んで人を助け、親切を示し、自分に与えられた役割に忠実であることは、私たちにもできることです。たとえそれが小さいことであっても、神はそれを用いてくださいます。そのことを信じてバルナバの模範に倣いたいと思います。そして、バルナバの模範に倣おうとするとき、それを自分の力や善良さによってではなく、真の慰め主、聖霊に信頼しましょう。それによって、私たちもまた、「慰めの子」に近づくことができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちにバルナバの模範を示してくださり、感謝します。私たちは彼の寛大さ、親切、誠実さにとうてい及びません。けれども、私たちは、その模範に少しでも近づくため、聖霊を求めます。私たちが「御霊の実」を結び、「慰めの子」となれますよう、助け、励まし、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/29/2025