父・御子・聖霊

ヨハネ14:16-21

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14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
14:21 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。

 一、三位一体の神

 今朝の箇所は、イエスが最後の晩餐のあとに弟子たちにお話しになった言葉です。イエスは弟子たちに世を去る時が来たことを告げました。弟子たちはその言葉に驚き、困惑しました。残されていく弟子たちは、どんなに心細く感じたことでしょう。しかしイエスは、弟子たちを捨てて孤児にはしないと約束して、言われました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネ14:16)「別の助け主」とは聖霊のことです。「別の」といっても、聖霊はイエスとは違った、イエスよりも劣るお方ということではありません。ここで使われているもとの言葉は「同質、同格の」という意味のある言葉で、「もうひとりの」と訳すことができます。聖霊は完全にキリストの代わりを努めることがおできになる、キリストと等しいお方なのです。

 イエスは「その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう」(ヨハネ14:20)とも言われました。「その日」とは、弟子たちに聖霊が与えられる日のことです。イエス・キリストは神の御子として地上で父なる神を現されました。キリストが地上を去られたあとは聖霊がそれをなさいます。聖霊はキリストの霊であり、聖霊が共にいてくださることは、キリストが共にいてくださること、キリストが共にいてくださることは父なる神が共にいてくださることなのです。弟子たちは、聖霊によって父・御子・聖霊の神が信じる者のうちに、また教会のうちにおられることを体験しました。

 おひとりの神が父・御子・聖霊として存在しておられ、父・御子・聖霊である神はおひとりであるということを「三位一体」と言います。この言葉は一般でも良く使われ、「政府と企業と学会が三位一体となって癌に効く薬の開発に力を入れる」などと言われます。しかし、この場合の「政府」、「企業」、「学会」の三つはそれぞれ別々のものです。三つの違ったものが協力しあっているというだけです。神が「三位一体」であるというのは、三つの違ったものが一致協力して働いておられるということではなく、父・御子・御霊は、おひとりの神として、本質的におひとつ、一体であるということなのです。

 「三位一体」を三角形で表わすことがあります。父・御子・聖霊は三角形のそれぞれの辺であり、三角形を構成する要素であるというのです。もし、そうだとしたら、父・御子・聖霊はそれぞれ完全な神ではなく、三分の一づつの神ということになります。しかし、聖書は父も、御子も、聖霊もそれぞれが完全な神であると教えています。

 また、「三位一体」が水にたとえられることもあります。水は常温では液体ですが、温度が下がると氷という固体になり、温度が上がると水蒸気という気体になる。そのように神も父であったり、御子であったり、聖霊であったりするのだというのですが、もしそうなら、「三位一体」は、ひとりの神がある時は父、ある時は御子、そしてある時は聖霊となって現われている、「ひとり三役」をしているということになります。しかし、父・御子・聖霊はそれぞれのお方として常に存在しておられました。

 「三位一体」を何かに譬え、説明しようとしても、そこには無理があります。「三位一体」は神だけが持っておられる存在のしかたであって、地上にはそれと同じものはありません。ですから「三位一体」を言い表わすのに、人間の言葉には限界があります。それは信仰によって受け入れるものであって、理性だけで理解できるものではありません。神は人間の知恵や知識を超えたお方です。愛や正義、その聖なることや真実なことといった神のご性質のどれ一つでさえ、わたしたちは完全に理解することができないのですから、まして、神の「存在」の本質について完全に知ることは不可能なことです。アウグスティヌスは「三位一体」を人間の知恵や知識で理解しようとすることは、こどもがバケツで海の水をくみ出そうとするようなものであると言っています。しかし、アウグスティヌスは、こうも言っています。「私が三位一体について書いているのは、それを書き表わすことができるからではなく、三位一体について沈黙しないためである。」 なぜなら、「三位一体」は聖書のあらゆる教えの基礎であり、三位一体が否定されるなら、それはもはやキリスト教ではなくなるからです。

 二、三位一体と聖書

 「三位一体」という言葉は教会の言葉であり、聖書にはありません。しかし、聖書には「三位一体」を示す箇所がいくつもあります。

 創世記1:1-3に「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。神は『光あれ』と言われた。すると光があった」とあります。ここには「神」と「神の霊」、そして神の口から出た「言」によって世界が創造されたと言われています。この「言」はヨハネ1:1-3に「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」と言われている「言」、つまり、イエス・キリストのことです。この世界を造られたのは父・御子・聖霊の「三位一体」の神です。

 マタイ3:16-17にイエスがバプテスマを受けられたときのことが書かれています。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。また天から声があって言った、『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。』」ここには、バプテスマを受けられた御子、その御子に降られた聖霊、そして天から声をかけられた父なる神が同時に描かれています。この箇所を読めば、「ひとりの神があるときは父、あるときは御子、あるときは聖霊となって現れている」という説が間違っていることが分かるでしょう。

 マタイ18:19-28に「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」とあります。「父、子、聖霊」は三名ですから、文法的に言えば、ここでの「名」は複数形(names)になるはずです。ところが、ここでは単数形(name)が使われています。それは父と子と聖霊がおひとりの神だからです。ですから、「父、子、聖霊の御名によって」という言葉は、神が「三位一体」のお方であることを示しています。信じる者は「父と子と聖霊の名」によるバプテスマによって、三位一体の神と結ばれます。つまり、父なる神の子どもとなり、キリストのからだの一部となり、聖霊の宮となって、聖霊がその人のうちに住んでくださるのです。

 他にも、「三位一体」を示している聖書の箇所をあげると、きりがありません。時間をかけて聖書を学び、「三位一体」について理解を深めていきたいと思います。そうするなら、聖書が示す神、いや、聖書によってご自分を示してくださっている神が、父・御子・聖霊であり、しかもおひとりの神であることが分かってくるのです。「聖なる、聖なる、聖なるかな」の賛美は、英語で "Holy, holy, holy! Merciful and mighty, God in three persons, blessed Trinity" と歌います。神は "One in Three" であり、"Three in One" のお方です。「おひとり」ではあっても「ひとりぽっち」ではない、「三位」であっても「一体」であるという、豊かな神を信じる者は、この神の豊かさにあずかり、豊かな人生を歩むことができるのです。

 三、三位一体と歴史

 教会はその初めから「三位一体」を教えてきました。初代教会では、バプテスマは、父と子と聖霊の名によって授けられましたが、バプテスマに際しては、神が父であり、御子であり、聖霊であることが教えられ、バプテスマを受ける人には、神が「三位一体」のお方であることを信じることが求められたのです。当時、バプテスマの準備には「使徒信条」が教材として使われました。「使徒信条」には「われは全能の父なる神を信ず」「われはそのひとり子イエス・キリストを信ず」「われは聖霊を信ず」とあって、「三位一体」の神への信仰が言い表わされているのです。

 「三位一体」の信仰は、時代がたつにつれて形づくられたというよりは、時代がたつにつれて、なし崩しにされてきました。プラクセアス、サモサタのパウロス、サベリウスなどという人々は、「三位一体」を否定して、ひとりの神が、ある時は父、ある時は子、ある時は聖霊という姿をとって現れたのだと言い出しました。そうした説が斥けられると、今度はキリストは神に近い存在だが、神ではないという説が出てきました。「アリウス説」と言われるものです。318年にアレキサンドリアの司教アレクサンドロスが「三位一体」について説教したところ、アリウスという学者がその説教を批判し、論争が起こりました。この論争に決着をつけるために325年の6月19日から8月25日までニカヤで、318人の指導者たちが集まって教会会議が行われました。アリウス派は「キリストは、神的な存在であるが、ある時点で神によって造られたもので、永遠でもなく神と同質でもない」と主張しました。それに対して司教アレクサンドロスの補佐役であった執事アタナシウスは、「キリストは永遠の先から神とともにおられ、神と等しいお方である。キリストが神に劣る者であるなら、われわれに救いはない」と言ってアリウス派に反論しました。アタナシウスは、このときまだ30歳そこそこでしたが、恐れることなく、「三位一体」の信仰を論証したのです。しかし、会議は論争を嫌う人々によってアリウス派に妥協した形で閉じられ、その後アリウス派は勢いを増すようになりました。「三位一体」を受け入れるには、神のことばに聞く従順な信仰が求められます。父なる神だけが神で、イエス・キリストも聖霊も神ではないとするなら、理性は満足するかもしれませんが、そこに救いはありません。

 「アリウス説」のほうが人々に受け入れられ、「三位一体」を主張したアタナシウスは死ぬまでに5回も追放されるという苦しみを味わいました。しかし、神のあわれみと聖霊の導きにより、教会は正しい教えに立ち返り、381年のコンスタンチノープル会議では「三位一体」の教えが妥協のない形で言い表わされ、「アリウス説」は斥けられました。全世界の教会が共通して告白する「ニケア信条」がそれです。そこには御子が父に等しいことが「主はすべての時に先立って、父より生まれ、光よりの光、まことの神よりのまことの神、造られずに生まれ、父と同質であり、すべてのものはこの方によって造られました」という言葉で言い表されています。また聖霊が、父と子とともに神であることが次の言葉で表現されています。「わたしたちは、主であり、命を与える聖霊を信じます。聖霊は、父と子から出て、父と子とともに礼拝され、あがめられ、預言者を通して語ってこられました。」

 教会は聖書が教え、使徒たちが伝えた教えに立ち返ったとき、祝福を受けました。その後、当時まだ未開の地だったフランス、イギリスにも伝道がなされるようになり、アウグスティヌス、クリスソストモスなどといったすぐれた説教者が生まれました。ヒエロニムスは全聖書をヘブル語とギリシャ語からラテン語に翻訳するという大事業を完成させました。最初、ニカヤ会議に集まった人々は、318人のうち200人までもが妥協的な案に賛成しました。誰も論争は好みません。妥協的であることのほうが「愛がある」と思われるのは、昔も今も変わりません。しかし、歴史は、教会が真理に立つとき、祝福されることを教えています。私たちも、この真理を、今日の教会と将来の祝福のために、しっかりと守り、教え、伝えていきたいと思います。

 アタナシウスの死後何年も経ってから、「三位一体」についての良くまとまったステートメントが出来上がりました。それは、アタナシウスが書いたものではありませんが、「三位一体」の信仰のために命がけで立ち上がったアタナシウスの勇気を記念して「アタナシウス信条」という名で呼ばれるようになりました。それは、このようなことばではじまっています。「すべて救われたいと願う者は、何よりも公同の信仰を保つことが必要である。…公同の信仰とはこれである。我らがひとつなる神を三位において、三位を一体において礼拝することである。」「三位一体」の教えは、妥協が許されるような教えではありません。これなしには人が救われ、神を正しく礼拝することができないからです。私たちのまわりには「キリスト教」や「教会」と称するものがさまざまあります。しかし、「三位一体」を信じないものは、どんなに外側が似ていても、それは「似て非なるもの」であって、「キリスト教」でも「教会」でもありません。「三位一体」は大切な信仰の基準点です。

 私たちは毎週の礼拝で「父、み子、聖霊の主なる神に、栄光豊かに、永遠にあれ、永遠にあれ」と歌い、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」との祝福を受けます。わたしたちは、たんに慣習としてそうしているのではありません。礼拝で御言葉を聞くとき「三位一体」の神がどんなに素晴らしいお方であるかをほめたたえずにはおれなくなるからです。私たちに必要な救い、助け、力、慰めのすべてが、父・御子・聖霊の「三位一体」の神から来るからです。「おひとりの神を三位において、三位を一体において礼拝する」わたしたちが、さらに豊かな神とのまじわりに導かれ、このお方を力強く指し示していくことができますように!

 (祈り)

 父・御子・御霊である主なる神さま、今朝、あなたが「三位一体」のお方であることを、もういちど、聖書によって確かめることができ、感謝します。私たちの救いは、父なる神のご計画により、御子イエス・キリストの十字架と復活により、そして聖霊による保証によって成し遂げられたものです。私たちがこうして神を父と呼んで、祈りを捧げることができるのも、聖霊により、御子イエス・キリストのお名前を通してはじめてできることです。わたしたちを「三位一体」のあなたとのさらに深いまじわりへと導いてください。永遠の栄光のうちにおられる父と子と聖霊の名によって祈ります。アーメン。

6/22/2014