わたしがいのちのパン

ヨハネ6:30-40

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6:30 そこで彼らはイエスに言った。「それでは、私たちが見てあなたを信じるために、しるしとして何をしてくださいますか。どのようなことをなさいますか。
6:31 私たちの先祖は、荒野でマナを食べました。『彼は彼らに天からパンを与えて食べさせた。』と書いてあるとおりです。」
6:32 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。モーセはあなたがたに天からのパンを与えたのではありません。しかし、わたしの父は、あなたがたに天からまことのパンをお与えになります。
6:33 というのは、神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」
6:34 そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」
6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。
6:36 しかし、あなたがたはわたしを見ながら信じようとしないと、わたしはあなたがたに言いました。
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。
6:38 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。
6:39 わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」

 使徒20:7に「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった」とある通り、初代教会の礼拝の中心は聖餐でした。宗教改革によって説教に重点が置かれる礼拝が生まれましたが、聖餐が説教にとって代わられたわけではありませんでした。宗教改革者たちも聖餐を尊び、「神のことばが語られ、聖餐が守られているところが教会である」と教えました。多くのプロテスタント教会では月に一度の聖餐に加え、クリスマスやイースターなどの特別なときに聖餐が行われています。聖餐のない時でも、聖餐のテーブルが礼拝堂の正面中央に置かれ、礼拝とは、主イエスの招きにこたえて、主の晩餐のテーブルのもとに集うことなのだということを、みんなが覚えることができるようにしています。

 このように、聖餐は大切なものですが、私たちが聖餐を守るのは、それがイエス・キリストによって制定されたから、教会が長年守ってきたからというだけではありません。聖餐が、他では得られない恵みを私たちに与えてくれるからでもあるのです。聖餐の意味や大切さについてはすでに何度かお話ししていますので、今朝は、聖餐の恵みについてお話したいと思います。きょうのお話の中心は35節の「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」というみことばです。聖餐が与える数多くの恵みの中から、ふたつのことをお話しします。ひとつは聖餐が私たちのたましいを養うこと、もうひとつは、聖餐が私たちを赦しといやしへと招いてくれることです。

 一、たましいの養い

 聖餐の恵みの第一は、なんといっても、それによって私たちのたましいが養われることです。私たちは聖餐においてイエスご自身をたましいの糧としていただき、イエスによって生かされ、養われるのです。

 私たちのからだは食べ物で支えられています。食べ物が無くなったらいのちを失います。ですから、昔、戦争をして籠城するときには城の中に何ヶ月分もの食べ物を貯め込みました。日本の城などでは、壁を作るとき、壁を塗る土の中に食べられる植物を混ぜておき、いざというときには壁を削って食べられるようにしたものもあったそうです。たとえ食べ物があっても、病気になって食べられなくなったら、やはり大変なことになります。ですから、食べられない期間、点滴によってからだに栄養を補給します。それが長くなる場合は、チューブを使って胃に直接食べ物を入れることもあります。まさに、食べ物はいのちを支えるもの、生きていくのになくてならないものです。

 からだに食べ物が必要なように、たましいにも食べ物が必要なことは言うまでもありません。そして、イエスは「わたしがいのちのパンである」と仰って、ご自分が私たちのたましいを生かし、養うお方であると宣言されたのです。イエスはご自分をクッキーである、ケーキでもある、アイスクリームである、キャンデーであるとは仰らず、「パンである」と仰いました。パンはイスラエルの人々の主食で、欠かすことのできないものでした。主の祈りで「日ごとの糧を今日も与えたまえ」と祈りますが、「糧」と訳されているのは、もともとは「パン」のことです。主の祈りは、ご馳走を求める祈りではなく、「パン」を、なくてならない、きょう一日の食べ物を求める祈りなのです。イエスがご自分を「パン」と呼ばれたのは、イエスが、私たちのたましいにとって、あればいいが無くても困らないようなお方でなく、無くてはならないお方、このお方から離れては、生きてはいけないお方であることを教えるためでした。

 神は私たちのたましいを生かし、養うためにふたつのものを用いられます。それは神のことばと聖餐です。マタイ4:4に「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」とあり、ペテロ第一2:2に「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」とあるように、みことばはなくてならないたましいの糧です。"Our Daily Bread" という聖書通読の手引きがあるように、みことばは、まさに、たましいにとって欠かすことのできない「日ごとの糧」です。

 しかし、みことばがたましいの食べ物であるというのは、一般に言われるように、みことばが私たちに生活の知恵となる、慰めや励ましになるというからだけではありません。もし、それだけのことなら、何も聖書でなくても、さまざまな書物から、名言、金言の類を引用してくればよいのです。実際、私が今使っている手帳には毎週そうしたことばが載っています。ネルソン・マンデラ、マーチン・ルサー・キング・ジュニア、ボブ・ホープ、アブラハム・リンカーン、アリストテレス、ロナルド・リーガン、ゲーテ、チャーチル、ジョン・F・ケネディ、トマス・エディソン、ビル・ゲイツ、ドワイト・アイゼンハワー、ウォルト・ディズニー、マーク・トワインなど、多くの人に知られている政治家、芸術家、実業家のことばが載っています。こうしたことばもまた、「ソウル・フード」(こころの糧)と呼ばれるのですが、聖書が「たましいの糧」であるのとは、まったく違っています。一般の「ソウル・フード」は、私たちのものの考え方に刺激を与えるだけで、決して、究極の真理を指し示すことはできません。人を造り、人を生かす、いのちのみなもとである神を教えることはありません。しかし、聖書は「神のことば」です。神について語っているというだけでなく、神ご自身が聖書によって、私たち人間に語りかけてくださっているのです。神は「光よ、あれ」と語りかけ、その力あることばによって造られました。エゼキエル書には枯れた骨に神のことばが語られるとそれが生きた人間となり、大軍勢になったということが書かれています。神のことばには神の力が、神のいのちが含まれているのです。私たちも、神のことばを聞くとき、そこにある力によって強められ、そこにあるいのちによって生かされ、満たされるのです。

 みことばとともに私たちにいのちを運んでくれるのは聖餐です。みことばは、神のみこころを教え、神の力や愛を伝えて、私たちにキリストを知る知識を与えてくれますが、聖餐はキリストご自身を私たちに届けてくれるのです。聖餐でいただくパンは「キリストのからだ」、杯は「キリストの血」なのですから、私たちは聖餐でキリストご自身をいただくのです。みことばは聞いて理解するという過程を経なければなりませんが、聖餐ではもっと直接的に、キリストをたましいの中にお受けるのです。みことばはそれが成就するまでは神の恵みを目で見て確認するということができませんが、聖餐では神の恵みを、この場で、この目で見、この鼻で嗅ぎ、この手で触れ、この舌で味わうことができるのです。聖餐でパンを食べ、杯を飲むこと、それはまだ信仰に至っていない人から見れば、たんなる儀式にすぎず、なぜ、そんなことを後生大事に守り行うのか理解できないかもしれません。しかし、信仰を持つ者には、聖餐は礼拝の中心また頂点です。キリストをたましいのうちに迎え入れ、キリストによって満たされる、何にも代えられないものなのです。

 二、赦しへの招き

 聖餐の恵みの第二は、私たちを神の赦しといやしに招くものだということです。古代には、敵対しあっていた二人が仲直りをするときには食事をしてそれを確かめ合いました。それは「和解の食事」と呼ばれましたが、聖餐は、まさに、神と人との和解の食事です。信仰を持ち、洗礼を受けたのち、クリスチャンは、まったく何の罪も犯さないというわけではありません。この世に生きるかぎり、私たちの内側にも、外側にも、私たちを罪に引き込もうとする力にとりかこまれています。悪いことを計画してそれを実行するようなことはしないでしょうが、なすべきことを怠ってしまう、不注意によって損害を与えてしまう、不用意なことばで人を傷つけてしまうことは誰にもあることです。私たちはそうしたことの赦しを日々求めながら生きています。しかし、キリスト者には、社会的に問題がなければ良い、家庭が円満であれば良い、人間関係がうまくいっていれば、それですべて良いというのではありません。信仰者にはそれ以上のことが問われます。それは神との関係です。神に対する愛、情熱、また忠実さなどが問われるのです。聖書が、人のいちばん大きな罪としているのは、「不信の罪」です。神のみこころを知りながらそれを裏切ること、神の導きを求めるよりは、自分の判断で事を行うこと、神に信頼するよりは自分の力に頼うことなどです。私たちは、自分では気がつかなくても、神の目からみて、そのような内面の罪を犯してしまうことがあるのです。

 ですから、みことばによって自分を吟味し、赦しときよめを得るために聖餐に来ることが大切です。聖書は聖餐の前に自分を吟味することを教えています。真面目なキリスト者であればあるほど、自分を吟味すればするほど、自分の罪深さを示されるものです。そして、聖餐にあずかるのにふさわしくないと思ってしまうことさえあります。しかし、そんな人にこそ覚えてほしいのは、聖餐が、主イエスのほうから罪びととの私たちのために提供された和解の食事だということです。私たちは、自分がふさわしいから聖餐に来るのではありません。むしろ、聖なるお方を受けるのにふさわしくないからこそ、赦しを願い、きよめを願ってここに来るのです。聖餐で示されるのは、赦しといやしの十字架です。キリストはそこでご自分のからだを裂き、血を流され、この聖餐で、そのからだと血を、つまり、いやしと赦しを私たちに分け与えてくださるのです。

 ある教会でのことですが、毎週土曜日に青年たちの集まりがありました。その集まりで、ひとりの青年が、あることがきっかけで、他の青年たちと喧嘩を始めてしまったのです。その喧嘩の原因はまわりの青年たちにもあったのですが、その青年は自分の間違いを認め、その場で他の青年たちに謝罪し、家に帰りました。翌日の礼拝は聖餐礼拝でした。青年たちは、喧嘩をした青年について、「あいつは今日は来ないだろうな。だって、あんな喧嘩をふっかけてきたのだから」と囁いていました。しかし、その青年が礼拝堂の片隅に座っているのを見て、言いました。「あいつが来ているぞ。俺たちは何も悪くないから、堂々と聖餐を受け取ることができるが、きのうあんな喧嘩をふっかけてきたあいつには聖餐を受け取る資格はないはずだ。」皆さん、喧嘩をしたがそれを悔い改めた青年と、彼を裁いて、自分たちを正しいとしている他の青年のどちらが、神に喜ばれ、聖餐を喜ぶことができたでしょうか。もちろん、喧嘩をした青年ですね。この青年は、自分の罪を悔い改め、その赦しを受けるために聖餐に来たのです。イエスに赦しを求めて拒まれた人は誰もいません。この青年こそ、聖餐の意味を最も良く知り、そこにある恵みを受け取ったのです。

 イエスは私たちをこのようなまじわりに招いておられます。罪が赦され、神の愛を確信し、神への愛に満たされていく、そんな喜びを、イエスは聖餐によって私たちに分け与えようとしておられます。

 聖餐の賛美に

Jesus, Lamb of God, Bread of Life for us;
Jesus, Lamb of God, Wine of Joy for us;
Jesus, Lamb of God, bearing all our sin;
have marcy on us, give us your peace.

イエス、神の子羊、私たちのための命のパン
イエス、神の子羊、私たちのための喜びのぶどう酒
イエス、神の子羊、私たちのすべての罪を担われるお方
私たちをあわれみ、私たちにあなたの平安を与えてください
という歌があります。この歌のとおり、イエスはいのちのパンです。喜びのぶどう酒、私たちを生かし、養い、私たちの罪を赦し、救いの喜びで満たしてくださるお方です。聖餐は、このイエスからいのちを受け、罪の赦しの喜びを受けるところ、いいえ、いのちであり、喜びであるイエスご自身をお受けするところです。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」この聖餐で、イエスの約束が真実なことを味わいましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはあなたのことばだけでなく、聖餐を通しても、イエス・キリストを私たちに伝え、悔い改めをもって聖餐にあずかるものに、大きな恵みと祝福を与えようとしておられます。みことばが信仰をもって聞かれなければ、私たちのいのちとはならないように、聖餐もまた、信仰によらなければその恵みを体験することができません。あなたは聖餐において、私たちの五感を通して恵みに触れ、感じるようにしてくださいましたが、なお、そこに私たちの信仰を求められます。こののちの聖餐が、正しい信仰によって、私たちにあなたの恵みを運ぶものとなりますよう、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

1/30/2011