見える人、見えない人

ヨハネ9:39-41

9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

 私は、日曜日の午後、礼拝でお話ししたメッセージをウェブページに載せるため、メッセージの原稿をもう一度チェックしています。その時、「目の見えない人」と書いたつもりなのに、「目に見えない人」となっているのに気がつきました。「目に見えない人」というと、透明人間になってしまい、「目の見えない人」と「目に見えない人」ではたった一字違いですが、まったく違います。日本語は難しいですね。

 今朝は、「目に見えない人」ではなく、「目の見えない人」が、イエスに目を開けてもらった、その後のことから、イエスがこの世に来られた理由を学びましょう。

 一、救われた者を礼拝に導くため

 イエスに目を開けてもらった人は、ユダヤの指導者たちに尋問され、ユダヤの社会から追放されますが、イエスは彼をさがしあて、彼に声をかけてくださいました。彼は、イエスに出会って、「主よ。私は信じます。」と告白し、イエスを礼拝しました。(38節)彼は、肉の目だけでなく、霊の目も開かれ、即座にイエスを信じ、告白することができたのです。彼は、目が見えないというハンディキャップを解決してもらっただけでなく、それよりももっと大切なこと、イエスを信じ、イエスを礼拝するという、人生で最も幸いなことへと導かれています。

 イエスは、それが、病気であれ、経済的なことであれ、人間関係のトラブルであれ、主のみこころならば、私たちのためにそれらを解決してくださいます。この世には、イエスに出来ないほど大きな問題も、イエスが関心を示さないほど小さなトラブルもありません。詩篇50:13に「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」とあります。しかし、イエスが、私たちの問題を解決してくださるのは、それによって私たちが神の力と愛を知り、私たちが、神をあがめ、より神を愛する者になるためです。問題が解決してそれで終わりというのではありません。そうであれば、私たちは、イエスを「トラブル処理係」にしてしまい、イエスを主ではなく、しもべにしてしまうことになります。詩篇50:13を正確に引用するなら、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」となります。「あなたはわたしをあがめよう。」という言葉がちゃんとあるのです。私たちは、神の助けを受けるだけ受けて、あとは知らん顔という恩知らずなことではなく、それによって、神をあがめること、神を礼拝することを忘れてはならないと思います。

 ルカの福音書17章に、イエスが十人のらい病人をいやしたことが書かれています。十人がみな同時に、イエスにいやされたのですが、その時、イエスに感謝するために戻ってきたのは、たったひとり、しかも、それは、サマリヤ人だったというのです。他の九人はユダヤ人で、まことの神を知り、救い主を待ち望んでいる人々のはずでした。イエスにいやしていただいたのですから、イエスに感謝するため、イエスのところには帰ってきて当然だったのですが、彼らは帰ってきませんでした。イエスはそれをご覧になって「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」(ルカ17:17-18)と嘆いておられます。しかし、十人が十人とも感謝を忘れたのではなく、そのうちのひとりは、たとえ、サマリヤ人であっても、神をあがめるために、イエスのもとに来ています。イエスはサマリヤ人に「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」(ルカ17:19)と、やさしく語りかけました。イエスは、かって、サマリヤの婦人に、「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。」と言われたことがありました。サマリヤの婦人がそうであり、サマリヤのらい病人がそうであったように、イエスによって、ユダヤ人やサマリヤ人といった区別をこえて、神を信じ、神を礼拝する人が起こされはじめたのです。

 イエスは、このように、人々の問題に解決を与えるだけでなく、人々を信仰告白に、礼拝に導こうとしておられます。本当の意味での救いは、単なるトラブルの解決ではありません。トラブルのある、なしを越えて、神によって与えられた目的に生きることです。この生まれつきの盲人のように、「神のわざが現れる」人生に生きることが、本当の救いです。彼は、救われて礼拝をささげるものとなりました。イエスは、私たちをまことの礼拝に導くために、この世に来てくださいました。私たちは日常の生活のさまざまな場面でイエスに助けていただいています。それを「良かった、良かった」ということで終わらせることなく、そこから、神への礼拝へと導かれていきましょう。罪ゆるされ、神の子とされているという、この素晴らしい救いを心から感謝し、神をほめたたえていきましょう。

 二、信じる者に光を与えるため

 イエスがこの世に来られた理由の第二は、私たちに光を与えるためです。イエスは、光として世に来られました。ヨハネの福音書は、イエスを「光」として描いています。ヨハネ1章〜12章の間に「光」という言葉が23回も使われており、そのほとんどすべてが、イエスをさしています。

 イエスが「光」と呼ばれるのは、まずは、イエスが私たちに神を見せてくれるお方だからです。ヨハネの福音書1:14には「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあり、18節には「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」とあります。暗黒の中では、私たちは何も見ることができません。光によってはじめてものを見ることができます。そのように、私たちは、イエスによってはじめて、神を見る、つまり、神がどのようなお方かを知るのです。イエスが来られるまでも、神はご自分を人々に現してくださっていましたが、神を知る光は、ごく限られた人々にしか与えられていませんでした。イエスが来られるまでは、人々は手探りで暗黒の中で神を求めいました。しかし、今は、すべての人が、イエスによって、神を見る光を与えられているのです。

 イエスが「光」と呼ばれるのは、次に、イエスがいのちを与えるお方だからです。ヨハネ1:4に「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」とあります。いのちは、光のないところでは育ちません。植物も、動物も、光を受けてはじめて生きるのです。イエスは、まことの光として、私たちを照らすためにこの世に来てくださいました。霊的に死んでいた者も、イエスの光に照らされる時、新しいいのちを与えられるのです。さきほど、ヨハネの福音書の1章から12章に「光」という言葉が23回出てくると言いましたが、「いのち」あるいは「生きる」という言葉は47回出てきます。この箇所のほかにも、多くの箇所で、光といのちとが結びつけて語られています。

 イエスはヨハネ8章で言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)イエスを信じ、イエスに従うものは、「やみの中を歩くことはない」と言われています。イエスの光によって神を知る人は、そのことによって、自分の人生の意味と目的を知ります。そして、意味も目的も見えない暗闇の人生から、ゴールがはっきりと見える生活へと移されるのです。また、「いのちの光を持つ」とも、イエスは約束してくださいました。これは、イエスを信じる者にあたえられる「永遠のいのち」のことです。イエスを信じ、イエスに従う者には人生の意味と目的を知るだけでなく、その意味にふさわしい生き方をさせてくれるいのち、その目的を満たしていく力となるいのちも、備えられているのです。ヨハネ8章で「わたしは、世の光です。」と言われたイエスは、9章で生まれつきの盲人に光を与えました。彼の目を開いただけでなく、彼の人生をまったく新しいものにされました。彼は、その目に光を与えられただけでなく、その人生に光を与えられて、神のいのちによって新しく生きるものとされました。イエスは、彼の目を開け、彼を救うことによって、ご自分が「世の光」であることを証明されたのです。イエスが世の光であることは、証明された事実です。

 私たちは誰も、生まれつきクリスチャンであり、目が開かれていて、永遠のいのちを受けているというのではありません。霊的にはみな「生まれつきの盲人」でした。イエスに出会うまで、神を知らず、信仰を持たず、永遠のいのちから遠く離れたものだったのです。生まれつきの盲人の目を開けたイエスは、霊的な生まれつきの盲人の目を明け、いのちを与えることが出来ます。イエスは、悔い改めと信仰をもってイエスのもとに来る者を造りかえ、その人に永遠のいのちを注いでくださるのです。あなたは、もう、イエスから光といのちを受けたでしょうか。あなたはイエスの光の中に歩んでおられるでしょうか。イエスのいのちによって生かされているでしょうか。

 三、信じないものをさばくため

 イエスが世に来られた理由の第三は、「信じないものをさばくため」です。人々は、いつの時代にも、神の愛や救いについては、耳を傾けても、神の怒りや神のさばきについては、あまり聞きたがりません。しかし、聖書を学ぶ時は、それをスキップすることはできません。イエスは神の愛について語り、私たちの救いのために、私たちのところに来てくださいました。しかし、イエスは同時に神の怒りや神のさばきについてはっきりと語っておられます。神の正義がなければ、神の愛も本物ではなく、神の正しいさばきがなければ、私たちの救いの完成もないからです。今朝の箇所、39節から41節は、イエスが「さばき」について語っておられる箇所です。

 「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(39節)これはイエスがユダヤの指導者たちに向かって語った言葉です。ユダヤの指導者たち、とくに「律法学者」と言われている人たちは、聖書と、ユダヤの伝統に精通していていて、「盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師」であると自任していました。(ローマ2:19)ところが、実際は、彼らが一番目の見えない人たちだったのです。彼らの目の前で、イエスが神のわざ行っても、彼らはイエスが神の子であることが分からず、イエスを信じなかったのです。イエスの弟子たちが「先生、ユダヤの指導者たちがあなたの教えを聞いて、あなたに腹を立てています。」と言った時、イエスはこう答えました。「彼らのことは放っておきなさい。彼らは盲人を手引きする盲人です。もし、盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むのです。」(マタイ15:14)イエスは「盲人の手引き」と自任する人たちに向かって、「盲人の手引きをする盲人」という、まことに辛らつな表現を使っています。それは、ユダヤの指導者が、そういわれてもしかたがないほど、神のみこころに逆らっていたからです、それはまた、イエスが「盲人」「やみの中にいる者」「愚かな者」「幼子」だと見下されてきた人々に心から同情されたからでもあると思います。イエスは「盲人」扱いされていた人々の目を開いてくださいましたが、自らを「盲人の手引き」と呼び、「私は見えている」と主張していた人々の目は、ふさがれたままにしておかれました。

 それからイエスは彼らに、こう言われました。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」自分が盲目であることを認めることなしに、どうやってイエスに目を開いていただけるのでしょう。自分の罪を認めることなしに、どうやって罪の赦しをいただけるのでしょう。自分の無力を認めることなしに、どうやって神の無限大の力を受けることができるのでしょうか。口語訳では、41節は「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」とあります。ユダヤの指導者たちは、「目が見える」と主張し続け、「罪がない」と言い張り、イエスのめぐみのわざを受け入れようとはしませんでした。それで、イエスのことばとわざは、彼らにとって、救いとはならず、「さばき」となってしまったのです。

 私たちは、彼らと同じ道を歩むことがないよう、目を覚まして、神のことばに耳を傾けましょう。イエスは、ヨハネの黙示録の中で、現代のクリスチャンにこう警告しておられます。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示録3:17-18)私たちは、救われる前は、このみことばのとおり、「みじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者」でした。しかし、救われて神の恵みによって「信仰に富む者」になりました。「主は私の牧者、私には乏しいことがない」ということができるようになりました。イエスの救いにはよって、霊的な面ばかりでなく、実際的な面でも祝福されてきました。それは、神を信じる者は、神の恵みによって健全な生き方をします。暴飲暴食、酒、タバコ、ギャンブルにかかわりませんから、当然健康も行き届き、勤勉に働きますから、経済も祝福され、誠実な歩みをしますので、多くの人に信頼されます。しかし、神の祝福には、そういった面とともに、人間の働きを超えたものもあります。私たちがどんなにがんばっても、それがひとつも報われないように見える時もありますし、私たちの不完全さにもかかわらず、神が大きく祝福してくださることもあるのです。すべては神の恵みです。であるのに、私たちは、神の祝福を、自分の努力の結果だと思い違いをしてしまったり、それが恵みであることを忘れてしまうことがあります。信仰が日々の神との関係であるにに、「若いころは熱心で、恵まれた。」などと、過去の恵みの体験だけによりかかるようになってくることもあります。そうすると、霊的なものが貧弱になり、魂が枯れてきているのに、それに気がつかなくなるということがあるのです。そのようにして、神の恵みが見えなくなっている者たちに、イエスは、「見えるようになるため、わたしから目薬を買いなさい。」とさとしてくださっています。「目薬を買う」といっても、それは、もちろん、金銭で買えるものではありません。イエスが「買う」という言葉を使っているのは、「代価を払ってでもそれを求めなさい。犠牲を払ってでも、それを手に入れなさい。それほどの熱心を持って求めなさい。」ということなのです。「主よ、目を開いてください。」と祈りましょう。イエスは、「見えない者が見えるようになり、見える者が見えなくなる。」と言われました。「見えない者が見えるようになる。」というのは恵みの世界です。「見える者が見えなくなる。」のはさばきの世界です。神は、あなたを恵みの世界に招いていてくださいます。あなたは、どちらを選ぶでしょうか。

 (祈り)

 恵みの神さま、私たちを、イエス・キリストの恵みの中に留まらせてください。あなたは、いつも「今は、恵みの時、今は救いの日です。」と私たちに呼びかけてくださっています。今日という日、今という時に、あなたの恵みを受け入れます。自分が盲目であることを認めます。あなたの恵みによって、あなたの恵みを見つめる目を与えてください。私たちを霊的に豊かなものとしてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/29/2002