この杯

ルカ22:39-46

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22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
22:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

 一、苦しみの祈り

 2004年に公開された映画、“The Passion of the Christ” はイエスの生涯の最後の12時間を克明に描いています。それが、あまりにもリアリスティックだったので、観客の中には気を失った人も出たほどでした。イエスが息を引き取られたのは午後3時ごろでしたから、その12時間前というと、午前3時、イエスがゲツセマネの園で祈っていたときでした。ですから、この映画もゲツセマネの祈りのシーンから始まっています。

 イエスにとって、祈りの時は、常に喜びに満ちたものでした。ルカ10:21にイエスの祈りが記されているのですが、そこには、「ちょうどこのとき、イエスは、聖霊によって喜びにあふれて言われた」とあります。イエスにとって祈りは「喜び」でした。祈りは、父なる神とのまじわりの時だったからです。

 イエスはルカ10:22でこう言われました。「すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、子がだれであるかは、父のほかには知る者がありません。また父がだれであるかは、子と、子が父を知らせようと心に定めた人たちのほかは、だれも知る者がありません。」イエスはご自分が神の御子であり救い主であることを明らかにしましたが、ご自分の民族、ユダヤの人々はそれを受け入れませんでした。イエスは故郷のナザレの町の人々からも斥けられました。そんな中で、イエスを一番良く知っておられるのは、父なる神でした。イエスは人々の抵抗や拒否に遭うたびに、自分を一番良く知っておられる父なる神との祈りに慰めを得たと思います。人間的な言い方をすれば、この世に来られたイエスは、父の家から見ず知らずの外国にただひとり遣わされてきたような状態でした。イエスにとって、祈りは、本国の父親と電話で会話をするようなもので、それは楽しく、うれしいものだったのです。

 ところが、きょうの箇所の44節には「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた」とあります。イエスにとって祈りが苦しみであったのは、おそらく、これが始めてだったでしょう。「ゲッセマネ」という場所の名前には「油絞り」という意味があります。オリーブ畑の中にはオリーブの油を絞る場所がありました。オリーブの実が挽き臼に入れられ、砕かれるのです。イエスもまた「ゲツセマネ」で、オリーブが油を絞り出すように、血の汗を絞り出して祈りました。

 この祈りが終わると、役人たちが剣や棍棒を持ってやってきて、イエスを捕まえ、大祭司のところに連れて行きました。一部の人々だけで真夜中に行われた不当な宗教裁判によってイエスは死刑を宣告されました。そして、夜が明けるとすぐにローマ総督ピラトのもとに送られました。総督ピラトは、なんの罪もイエスに認めることができなかったのですが、群衆の声に負けて、イエスを十字架に引き渡しました。イエスはローマ兵から容赦のない鞭を受け、茨の冠をかぶせられ、さんざんに痛めつけられたあと、十字架を背負わされて、ゴルゴタの処刑場に向かいました。十字架刑はこの世で最も残酷な処刑で、人に極限の苦しみを与えるものですが、その苦しみは、ゲツセマネの園から、すでに始まっていたのでした。

 二、みこころに従う祈り

 では、イエスはゲツセマネで何を苦しんだのでしょうか。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」とイエスは弟子たちに教えていました。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」とも言いました(マタイ10:28、38)。ですから、イエスが、これからその身に受けようとしている痛みを恐れたとは考えられません。実際、イエスは不法な裁判にも、ローマ兵の鞭にも、十字架の苦しみにも耐えています。イエスが苦しんだ苦しみは、もっと別のところにありました。それは何でしょうか。

 その答は、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください」(42節)との祈りの中にあります。聖書には二種類の「杯」があります。ひとつは「祝福の杯」あるいは「救いの杯」です。詩篇23:5に「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています」とあり、詩篇116:13には「私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう」とあります。この杯は、神が人々の人生を祝福で満たしてくださることを表しています。もうひとつは、神の「怒りの杯」あるいは「審判の杯」です。イザヤ51:17にこうあります。「さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した。」これは、神の都エルサレムが、神に背き続けたため、神の「憤りの杯」を飲んで滅びるという預言です。黙示録14:10には「そのような者は、神の怒りの杯に混ぜ物なしに注がれた神の怒りのぶどう酒を飲む」とあって、反キリストに従う人々への警告が書かれています。イエスが「この杯」と言われのは、ふたつ目の杯、神の「審判の杯」でした。

 では、神の審判とは何でしょうか。それは、最終的には神から遠ざけられ、神とのいっさいのまじわりを絶たれることにあります。イエスは十字架の上で人類のすべての罪を背負い、神の正義の審判を受け、神とのまじわりを絶たれました。それまで、神を「父よ」と呼んでいたイエスは、十字架の上では「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫んでいます。正午から午後三時までの間、ゴルゴタは暗闇に包まれました。光である神から切り離されるとき、そこには闇しかありません。この暗闇はイエスが本当に神に見捨てられたことを表しています。

 神を信じないで、神とのまじわりを求めることもしない人は、神とのまじわりが絶たれることの恐ろしさを想像することさえできないでしょうが、父なる神とひとつであるお方、イエスは、神とのまじわりを絶たれることがどんなに恐ろしいことかをよく知っておられました。だから、イエスはこのように苦しんだのです。

 人類を救うため、その罪を背負って神の審判を受ける、それが神のみこころであることを、イエスは十分に知っておられました。なのに、ここで、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください」と祈っているのはなぜでしょうか。いよいよ十字架が迫ってきたので、それを恐れたからでしょうか。いいえ、この祈りは、父なる神にみこころを問いなおし、それを確認する祈りでした。神に従おうとしない人は、決して、みこころを問いません。自分が好むままに道を選びます。しかし、みこころに従たい、みこころを行いたいと願う人は、すでに分かっていることであっても、立ち止まり、祈ってみこころを確認し、それから進んでいくのです。イエスはここで、父のみこころを確認し、「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈って、それに従いました。

 このときイエスは、私たち人間が犯す、ありとあらゆる罪が詰まった杯を飲み干されたのだと思います。それを飲むことによって罪のないお方が「罪」そのものとなって、罪の審判を受けたのです。それは、ご自分を信じる者の罪を赦すためでした。コリント第二5:21に「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」とある通りです。私たちの「罪」がイエスに移され、イエスの「義」(神の前での正しさ)が私たちに移されたのです。

 過越の食事のとき、イエスは「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言って弟子たちに杯を与えました。イエスが弟子たちに与えたのは「祝福の杯」でした。イエスは、私たちには、赦し、きよめ、神の愛、恵みなど、あらゆる祝福が一杯詰まった「救いの杯」をくださるため、私たちに代わって罪に対する神の「怒りの杯」を飲んでくださったのです。

 三、イエスと共に祈る祈り

 イエスは「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈って、父なる神のみこころに従いました。イエスがみこころに従ってくださったことに私たちは救われています。もし、イエスが「この杯をわたしから取りのけてください」という祈りを押し通したとしたら、私たちに救いはなかったのです。「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」私たちはこのイエスの祈りにどんなに感謝しても、感謝しきれませんが、同時に、忘れてはならいことがあります。イエスを信じる私たちもまた、イエスに倣って、神のみこころを求め、それに従うことが求められているということです。

 イエスの地上の生涯、そのみわざは、それによって人類を救うためのものでしたが、それと同時に、それは、救われた者の模範でもあったのです。イエスは弟子たちの足を洗ったとき、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです」(ヨハネ13:15)と言っています。また、ペテロ第一2:20-21にこう書かれています。「罪を犯したために打ちたたかれて、それを耐え忍んだからといって、何の誉れになるでしょう。けれども、善を行なっていて苦しみを受け、それを耐え忍ぶとしたら、それは、神に喜ばれることです。あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」イエスが十字架の苦しみ受けたのは私たちの救いのためでした。しかしそれを耐えたのは、私たちの模範のためでもあったのです。イエスを模範にすると言っても、それは、本当に足を洗い合うとか、実際に鞭打たれたり、十字架を背負ったりしなければならないということではありません。イエスの時代と私たちの時代では状況が違います。イエスの「模範に倣う」とはイエスのなさったことを真似ることではなく、イエスの謙遜や忍耐、また、神への忠誠や信頼を、私たちの日常の生活の中で実行することなのです。

 イエスは私たちに「主の祈り」を与えてくださいました。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(マタイ6:9-10)「主の祈り」は「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください」と続くように、日常の祈りです。普段の生活の中でみこころを祈り求めるよう教えられています。「みこころを第一にする」ことは頭では分かっていても、実際には難しいことです。だから、日毎にそれを祈るよう、イエスは教えたのです。

 ある人が言いました。「『主の祈り』は弟子たちが祈る祈りだから『主の祈り』と呼ぶのはおかしい、『弟子の祈り』と呼ぶべきだ。」私はこう答えました。「それは、主イエスが教えてくださったから『主の祈り』でいいのです。また、この祈りは主がともに祈ってくださるから『主の祈り』なのです。」「みこころが行われますよう」と祈れないときも、ゲツセマネで「みこころのとおりにしてください」と祈られたイエスが私たちと共に祈り、私たちをみこころを求める祈りへと導いてくださるのです。イエスは私たちとともに祈ってくださいます。そのことを信じ、ゲツセマネのイエスを覚えながら、日毎にみこころを求めて祈りましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、自分の願いが先に立ち、「みこころが行われますように」と祈ることのできない私たちのために、イエスは「しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈ってくださいました。この救い主イエスを私たちの心に、生活に、人生に受け入れ、イエスと共に、あなたのみこころを願い求めていく私たちとしてください。私たちのために血の汗を流し祈ってくださったイエスのお名前で祈ります。

10/25/2020