その名はイエス

マタイ1:18-21

オーディオファイルを再生できません
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっ
ていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわ
かった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に
去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデ
の子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊
によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の
民をその罪から救ってくださる方です。」

 先週、イエス・キリストには少なくても120もの呼び名があるとお話ししました。今年のアドベントは、マタイの福音書の一章と二章からイエス・キリストが持っておられる数多くのお名前のうち、四つを取り上げる予定です。今日は「イエス」というお名前を取り上げましょう。

 一、救う者

 名前には、それぞれルーツがあり、何らかの意味があります。特に英語の名前には、職業や役職から出たものが少なくありません。Smith は鍛冶屋、Taylor は仕立て屋、Baker はパン屋、Butler は執事、Fisher は漁師、Carpenter は大工という意味です。先祖がそういう仕事をする人たちだったのかもしれません。私どもの教会には Evangelist さんという人がいますが、この人の先祖に、きっと伝道者がいたのでしょう。「イエス」は、Smith や Baker というファミリー・ネームではなく、個人名です。しかし「イエス」という個人名にも、Smith や Baker などと同じように、その仕事や役割を示す意味がこめられています。それは「救う者」という意味です。

 「イエス」というのは「ヨシュア」のギリシャ語名です。モーセの後継者となって、イスラエルを約束の地に導き入れた、あのヨシュアと同じ名前です。「ヨシュア」は旧約聖書のギリシャ語訳では「イエス」と書かれており、「イエス」は、ヘブル語の新約聖書では「ヨシュア」となっています。旧約聖書はヘブル語で、新約聖書はギリシャ語で書かれましたから、「ヘブル語の新約聖書」というのはおかしな言い方ですが、これは、ユダヤの人々のために新約聖書をヘブル語に訳したものという意味です。ユダヤの人々は、イエスを「ヨシュア」と呼んでいましたし、今も、そう呼んでいます。この「ヨシュア」という名前は、神のお名前の「ヤーウェ」と「救う」という言葉が組み合わさってできたもので「ヤーウェは救う」という意味です。そこから、「ヨシュア」という名は、「救う者」という意味を持つようになりました。天使は、マリヤの夫ヨセフに「その名をイエスとつけなさい。」と言いましたが、天使はおそらくはヘブル語で語りかけたでしょうから、ヨセフは「その名をヨシュアとつけなさい。」と聞いたことでしょう。「シモン」でも「ヨハネ」でも「ヤコブ」でもなく、なぜ「ヨシュア」なのかというと、マリヤから生まれる子が、その名前の通り、人々を「救う者」となるからでした。「ヤーウェは救う」という名前の通り、このお方が、私たちを救ってくださる神だからです。

 「イエス」、「イエスズス」「イエスス」、「ヤソ」、「ジーザス」など、イエスはそれぞれの国語によってさまざまに呼ばれますが、本来のお名前は「ヨシュア」であり、その名には「救ってくださるお方」という意味があるのです。私たちが「イエスさま。」とそのお名前を呼ぶのは、このお方が「私たちを救ってくださる方」だからであり、その名に私たちを救う力があるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)とあるように、このお名前を呼び求める者は、救われるのです。あなたは、もうこのイエスの救いにあずかっているでしょうか。その救いを感謝しながら日々を歩んでいるでしょうか。

 二、罪から救う者

 しかし、ひとくちに「救い」といってもいろんな意味があります。私たちも、「救い」という言葉をいろんな意味で、また、いろんな場合に使います。お金がなくて困っている時、誰かが用立ててくれたら、私たちは「救われた。」と感じるでしょう。重い病気が直った時、「救われた。」と言って喜ぶでしょう。国が存亡の危機にある時、有能な指導者が国を守ったなら、その人は国を「救った人」と呼ばれるでしょう。精神的に落ち込んだり、混乱したりしている時に、誰かが支えになってくれたり、導きを与えてくれたりして、そこから立ち直ることができたなら、そのこともまた「救われた。」ということばで言い表わすことでしょう。

 では、イエスが私たちに与える救いとは、どんな救いなのでしょうか。イエスの救いには、経済的なもの、医学的なもの、社会的なもの、精神的なものがすべて含まれています。しかし、それは単に、お金が与えられる、病気が良くなる、社会が秩序を取り戻す、私たちが精神的な支えを与えられると言うだけのことではありません。そういうことだけであれば、イエスなしでも、ある程度は現在この地上で得ることができるでしょう。お金も、社会的地位もあり、健康で、家族、友人に取り囲まれ、精神的な支えも持っていて、さまざまな面で恵まれている人たちは、数多くではありませんが、いないわけではありません。そういう人が「成功者」と呼ばれるのでしょう。何年か前に移民局に行ったことがありますが、建物の外にまで、順番を待つ人たちがあふれて長い列を作っていました。その時、シリコンバレーには、いわゆる「成功者」になるために大勢の人々が世界中から集まっていて、人一倍努力して、またチャンスを他の人よりも早く手に入れて、そうした「成功者」になろうとする人たちがここでしのぎを削っているように感じました。どんなにすべてのものに恵まれていても、人は、それで幸福であり、救われているというわけではないのです。どんなに豊かな時代になっても、どんなに自由で公平な社会ができあがっても、また、医学や科学技術が進歩しても、それによっては解決できないものがあるのです。それは、人間の罪です。罪は、お金によっても、教育によっても、どんな道徳的な行いによっても解決することはできません。人間を罪から救ってくださるのは、ただひとりイエスだけです。

 モーセの後継者ヨシュアは、その名のとおり、イスラエルの人々を外敵から救いました。ヨシュアは、イスラエルの人々を約束の地に導き入れ、エリコの町を皮切りに、カナン人の町々を次々と攻め落として、エジプトを出てから土地も家も畑も持たなかったイスラエルに定住の地を与えました。しかし、ヨシュアが世を去ると、イスラエルの人々は自分たちを救い出してくださった神を忘れ、偶像を拝み、好き勝手なことをするようになりました。イスラエルは不信仰になると力を失い、周りの民族に攻め込まれ、苦しめられました。そして、イスラエルが苦しみの中から神に助けを求めると、神は「士師」と呼ばれる「救助者」「救う者」をイスラエルに送ってくださいました。ギデオンやサムソンなどは士師でした。しかし、こうした救助者は、一時的にイスラエルを救うことはできでも、恒久的には救うことはできませんでした。

 そこで、神は、イスラエルに「王」をお与えになりました。王のもとにイスラエルは繁栄していくのですが、人々はその繁栄に酔いしれて、神をないがしろにし、一部の特権階級が、社会的に弱い人々をしえたげるようになってしまいました。神は、何度もイスラエルに悔い改めを迫り、また、敬虔な王たちも国民に信仰を勧めたのですが、人々は、うわべでは宗教儀式を守っても、心の中は神へ真実を失っていました。そのため、イスラエルは国を失い、バビロン、ペルシャ、ギリシャの帝国の属国となり、イエスのお生まれになった時は、ローマ帝国の支配下にありました。士師も王も、一時的、軍事的にイスラエルを救いはしましたが、イスラエルをその罪から救うことはできませんでした。旧約のヨシュアも、士師たち、王たちも、人々を罪から救うことはできませんでした。罪を犯しては滅びていく人間の空しい歴史に終止符を打つことはできなかったのです。人々は、彼らをその罪から救ってくださる方を必要としていました。

 そして、ついに時が来て、イエスが世に来られました。イエスは、天使が告げた通り、「ご自分の民をその罪から救う」お方でした。イエスは、人々のほんとうの必要に答えることのできる唯一の救い主でした。物質的に豊かになることによって、人は救われるのではありません。そうしたものは、一時的なもので、ほんとうの救いにはならないのです。サタンは「あなたが神の子なら、この石がパンになるように命じなさい。」(マタイ4:3)と言ってイエスを誘惑しましたが、サタンは、「人間は胃袋に手足が生えたものに過ぎない。石をパンに変え、民衆を満腹させれば、彼らはあなたについて来る。人々の欲求を満たしてやれば、あなたはみんなから受け入れられる。」と言って、イエスが人々に罪からの救いという霊的なものを与えるのを妨げ、それを物質的、表面的な救いにすり替えようとしたのです。たしかにイエスは大勢の人々にパンを与えて、彼らを養いました。しかし、それは、パン以上のもの、ご自身を私たちに与え、その死によって私たちを罪から救うお方であることを示すためのものでした。イエスの与える救いは、私たちが神に対して犯した罪と、その罪の結果から私たちを救うものでした。イエスの救いは人間の罪という根本的な問題を解決するためのものだったのです。

 イエスの救いはまた、政治的、社会的なものでもありませんでした。イエスは、王の王、主の主でした。その力で社会や制度を変え、世界を統一することなど、たやすいことでした。イエスの弟子たちも、最初はそのようなことを期待して、イエスに従ったのでした。しかし、イエスはこの世の王とは違っていました。イエスは、馬に乗り、軍隊を従えてではなく、ロバの子に乗って、民衆とともにエルサレムに入城なさいました。イエスは、あのエルサレムで、この世の権力者に犯罪人として裁かれ、十字架につけられました。しかし、イエスは、その死によって、私たちを罪から救い、政治的独立や社会的平等に勝るもの、神の子どもとしての身分、天国の市民権を私たちに与えてくださったのです。このイエスこそ「ご自分の民をその罪から救ってくださる方」、まことのヨシュア、完全で最終的な救い主なのです。

 三、民を救う者

 聖書が「ご自分の民を罪から救う」と言う時、それは、神の愛を表しています。神の大きな恵みを受けながら、その恵みに感謝もせず、神に逆らい、神の敵となってしまっていたイスラエルを、神は、なおも「ご自分の民」と呼んで、愛してくださいました。しかも、神が「ご自分の民」と呼んでくださるのは、イスラエルだけではありません。そこには、私たちも含まれるのです。神は、ユダヤ人だけの神ではなく、すべての人の神だからです。ユダヤ人も、ギリシャ人も、そして、日本人もアメリカ人も、同じように、神に背き、罪の中にあります。誰もがイエスによってその罪から救われなければならないのです。イエスはユダヤ人としてお生まれになりましたが、イエスの救いは、ユダヤにだけに留まっているものではありませんでした。それは「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土」そして「地の果てまで」(使徒1:8)伝えられるものでした。実際、アメリカの西海岸、地の果てにいるような私たちひとりびとりにも、イエスの救いの恵みが伝えられています。イエスによって、ユダヤ人と異邦人との隔ては取り除かれました。異邦人もまた、神の民と呼ばれ、イスラエルに与えられていた特権のすべてにあずかるのです。イスラエルの人々よりも、さらに神から遠く離れていた私たちをも神は「ご自分の民」と呼んでくださるのです。「ご自分の民」ということばは神の人間に対する限りない愛を表しています。

 新約聖書は、ギリシャ語で書かれました。ギリシャ語が民衆の共通語で、ギリシャの文化が広くひろまっていたからです。当時の人々が、ギリシャ語で「神」という言葉を聞いた時には、ギリシャ神話の神々を連想したことでしょう。パウロがバルナバといっしょにルステラで伝道していた時、生まれながら足の効かない人をいやしたことから、人々はバルナバを「ゼウス」、パウロを「ヘルメス」と呼んで、ふたりにいけにえをささげようとしたことがありました。「ゼウス」はギリシャの主神であり、「ヘルメス」はギリシャの雄弁の神です。バルナバが無口で堂々としていた人であり、パウロがおもに説教する人だったので、そう呼ばれたのでしょう。使徒14:6-18に書かれているこの出来事はギリシャの神々がいかに人々に身近なものだったかを示しています。

 しかし、ギリシャの神々は、人を救う神ではありません。ギリシャの神々は、人間を嫉妬し、人間に対して怒り、人間を裁き、苦しめる神々です。ギリシャ神話に「女神アテナと機織りアラクネの物語」があります。アラクネは機織りの名人で、腕に自信があり、常々「アテナにも負けはしない。」と言っていました。女神アテナが機織りを司っていたからです。それを聞いたアテナはアラクネと機織りの競争をすることになりました。しかし、アラクネの織ったものは完璧で、非のうちどころがありませんでした。そのためアテナはアラクネの織物を引き裂いてしまいました。アラクネは悔しさのあまり、首をつって死ぬのですが、アテナは、「おまえも、おまえの子孫もそうして木にぶらさがり、永遠に機を織り続けよ。」と言って、アラクネを蜘蛛にしてしまったというのです。

 シシィフスは自分の欲しいものを手に入れようとして神々をだましたため、刑罰を受けました。その刑罰というのは、大きな岩石を丘の上まで運んでいくというものです。苦労して丘の上まで着くと、その石は坂を転がってもとのところに戻ります。それを再び丘の上まで運びと、また岩は坂を転がり落ちていくのです。シシィフスは、運んでは転がり落ちる岩を丘の上に運ぶという仕事を未来永劫、永遠に繰り返すのです。これが神々からの刑罰でした。

 タンタラスは、自分の息子を殺したため、神々は、彼を罰して、首まで水に漬けてしまいます。しかし、タンタラスは喉が渇いてもその水を飲むことができないのです。水を飲もうと身体をかがめると水は逃げていくのです。また、彼の頭の上には、たくさんの実がなっている木があるのですが、それを取ろうと手を伸ばすと、とたんにその枝が跳ね上がって、彼は決して実を取ることができないのです。

 これらの神話は、人間の悲惨な状況を描写したものなのでしょうが、ギリシャの神々は、人間が神々の怒りを受けて苦しみ、意味のない人生を送り、飢えも渇きも癒せないでいる姿を、楽しんで見ているだけで、誰一人、人間を助けようとはしないのです。しかし、聖書の神は違います。ギリシャの神々に背いたからというので、刑罰を受けなければならないとしたら、きよい、まことの神に対する罪はどんなにか大きな裁きに値することでしょうか。しかし神は、神に背いた人間をその罪から救い出すために、ご自分のひとり子を地上に送ってくださいました。この世を裁くためにではなく、救うためにです。聖書に「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)とある通りです。このような神が他にいるでしょうか。このような救い主が他にあるでしょうか。ギリシャの神々にも、日本の神々にも、人間を、いいえ、罪人を愛して「救ってくださるお方」はありません。ただひとり「イエス」と名付けられたお方だけが、私たちを「その罪から救ってくださるお方」です。「あなたこそ、私を罪から救ってくださるお方です。」という信仰を込めて、「イエスさま」、「イエスさま」、「イエスさま」とこのお名前を、ひたすらに呼び求めようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子に「ヨシュア」、「イエス」という名を与え、世をさばくためではなく、世を救うために、この世にお送りくださいました。そして、イエスのお名前を受け入れるだけで、その名を呼び求めるだけで、私たちが救われるようにしてくださいました。イエス・キリストに敵対し、クリスチャンを迫害してきたパウロに対してさえ、あなたは「さあ、なぜためらっているのですか。立ちなさい。その御名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」(使徒22:16)と声をかけてくださいました。パウロが、その勧めに従ったように、イエスの御名を呼んでバプテスマを受ける人々が起こされますよう、心から祈ります。また、イエスの御名を知る者たちが、その御名のすばらしさをさらにあかしすることができますよう、導いてください。私たちをその罪から救ってくださるお方、イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/4/2005