すべてにまさる名

ピリピ2:9-11

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2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 クリスマスの前の四回の日曜日は、それぞれ「アドベント第一主日」、「アドベント第二主日」、「アドベント第三主日」、「アドベント第四主日」と呼ばれます。毎年、アドベント(待降節)にはトピックをひとつ選んでお話をしていますが、今年は「キリストのお名前」という主題を選びました。今から二千年前、ベツレヘムで生まれたお方を、私たちはふだん特に考えることなく「イエス・キリスト」と呼んでいますが、誰が、なぜ、このお方に「イエス」という名前を与えたのでしょうか。この名前には特別な意味があるのでしょうか。「キリスト」とはいったいどういう意味なのでしょうか。そうしたことは、クリスマスのストーリの中に物語られていますので、クリスマスのストーリをたどりながら、キリストに与えられたお名前の意味をひとつづつ学んでいきましょう。そもそも「クリスマス」という言葉は「キリストのミサ」、「キリストへの礼拝」という意味で、そこには「キリスト」というお名前が入っているわけですから、「キリスト」という名前の意味を知らないで、ほんとうにはクリスマスを祝うことができません。キリストに与えられたお名前の意味を良く知って、ほんとうの意味でのクリスマスをお祝いしたいと思います。

 一、御名を知る

 今、「キリストに与えられた名」と言いましたが、聖書ではキリストはどのように呼ばれているのでしょうか。ここにキリストのお名前を書き並べたポスターがあります。ここには、"And thou shalt call his name"(その名はこう呼ばれる)とあって、Jesus(イエス)、Prince of Peace(平和の君)、Mighty God(力ある神)、Wonderful Counselor(不思議な助言者)、Holy One(背なるお方)、Lamb of God(神の子羊)、Prince of Life(命の君)、Lord God Almighty(主なる全能の神)、Lion of Tribe of Judah(ユダ族のライオン)、Root of David(ダビデの根)、Word of Life(いのちのことば)" などと、キリストのお名前が35書き連ねられています。皆さんは、キリストのお名前を35あげることができるでしょうか。私は、すぐには35も思いつくことができませんでしたので、このポスターを見て、とても感心したのですが、他のポスターを見ましたら、それには60もの名前が書かれてありました。それで「他にもあるかもしれない。」と思って、キリストの呼び名を調べてみましたら、なんと184のキリストのお名前を見つけました。私の場合、すこし細かく分けすぎたかもしれませんが、同じようなものをまとめたとしても、キリストは、およそ120もの違った呼び名で呼ばれていることは確かです。

 キリストは、「明けの明星」、「谷のゆり」、「ライオン」など、天体や植物、また動物の名前で呼ばれ、「王」、「祭司」、「裁判官」、「参議官」など、さまざまな役職でも呼ばれていますが、これらは、キリストがどんなお方かを教えてくれます。キリストが数多くのお名前を持っておられることは、キリストのお働きの豊かさを示しています。キリストは、ひとりで何役もこなして、私たちのために、私たちの祝福のために働いてくださっているのです。

 キリストの呼び名の中には、一見して矛盾するようなものも多くあります。キリストは「主」と呼ばれ、また「しもべ」と呼ばれています。「裁判官」と呼ばれ、また「弁護人」と呼ばれています。「神の子」と呼ばれ、「大工の子」と呼ばれています。「神」と呼ばれ「人」と呼ばれています。「父」と呼ばれ、また「子」と呼ばれています。「ライオン」と呼ばれ、「子羊」と呼ばれています。しかし、聖書をよく学んでいくと、こうした一見矛盾するものが、キリストのご人格とお働きの中にみごとに溶けあっていることが分かります。こうしたキリストのお名前は、キリストが、他の誰とも違った独自なお方、ただひとりの救い主であることを教えています。

 今年、「私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)を年間の標語としてきましたが、聖書で神がどう呼ばれているか、キリストにどんな名前が与えられているかを学ぶのは、「主を知る」ためにとても良いことです。神は、私たちに、神のお名前、キリストのお名前をさらに多く、また深く知るように願っておられます。今年のアドベントでは120以上もあるキリストのお名前の四つだけしかとりあげることができませんが、その他のお名前についても、このアドベントの機会にぜひとも学んでいただきたいと思っています。

 二、御名を告白する

 神は、私たちがキリストのお名前を知ることを望んでおられますが、キリストのお名前を知った者には、キリストのお名前を受け入れること、キリストのお名前を言い表すことを求めておられます。ヨハネ1:12に「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」とあります。「その名を信じる」と言うのは、キリストの数多くのお名前が示しているように、キリストが神の子であり、私たちのただひとりの救い主であると信じることを意味しています。

 マタイ16:13ー20に書かれてありますが、ある時、イエスは弟子たちに「人々はわたしをだれだと言っているか。」とたずねたことがあります。その時、弟子たちは「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。また、ほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」と答えました。弟子たちは自分の意見ではなく、人々の意見を代弁したのです。イエスが、今、ここにいる私たちに同じ質問をなさったら、「現代の多くの人々は、あなたのことを、キリスト教の開祖、聖人・偉人のひとりだと言っています。」と、私たちは答えることでしょう。しかし、当時のユダヤの人々がイエスを預言者のひとりとしたり、現代人がイエスを宗教家のひとりとすることは、イエスの本当の姿を言い表してはいません。そこで、イエスは「人々はどう言っているか」ではなく、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と、もう一度、弟子たちに質問しました。この質問に弟子のひとりペテロが「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白しました。イエスは、この告白を受け入れ、ペテロと同じように「イエスは神の子キリストである。」と告白する人々によって、教会が建てられていくと宣言されました。イエスは今も、私たちに「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」と問いかけておられます。弟子たちが「イエスは神の子キリストである。」と言い表したように、私たちも「イエスは主キリストです。」と言い表すことを、イエスは願っておられます。ピリピ2:11に、「すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とある通りです。

 「イエス・キリストは主である。」と訳されているところは、原文では ΚΥΡΙΟΣ ΙΗΣΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ(主イエス・キリスト)と、キリストの三つのお名前がならべられているだけですが、この三つの名前は、キリストがどのようなお方かをはっきりと言い表しています。ΚΥΡΙΟΣ(主)という言葉はこのお方が「神」であること、ΙΗΣΥΣ(イエス)というお名前はこのお方が「救い主」であること、ΧΡΙΣΤΟΣ(キリスト)というタイトルは、このお方が神と人との「仲介者」であるとを言い表しています。ですから、ヨハネ1:12で「キリストの名を信じる」と言われているのは、キリストを神として、救い主として、また、神と人とのただひとりの仲介者であると信じるという意味になります。私たちは、イエスを主として、キリストとして受け入れる時、キリストの救いを受けることができるのです。

 皆さんは、キリストのシンボルに「魚のマーク」が使われているのをご存じですね。ΙΗΣΥΣ(イエス)、ΧΡΙΣΤΟΣ(キリスト)、ΘΕΟΣ(神)ΥΙΟΣ「御子」ΣΩΤΗΡ「救い主」というキリストの五つのお名前の頭文字を合わせると、ΙΧΘΥΣ となり、これが「魚」を意味することから、このシンボルが用いられるようになりました。クリスチャンが迫害されていた時代には、このシンボルが、暗号として使われたと言われています。一人の人が、魚のマークの一方の曲線を描くと、もう一人がそれを補い、魚の形に作ります。そのようにして、お互いがクリスチャンであることを確かめ合ったというのです。「イエス」「キリスト」「神」「御子」「救い主」という、キリストのお名前が「天国の鍵」のような役割を果たしていたのです。皆さんは「天国の鍵」を持っているでしょうか。イエスがキリストであり、神であり、神の御子であり、救い主であることを知り、受け入れ、言い表しているでしょうか。

 キリストを信じる信仰は、決して薄っぺらなものではありませんが、だからと言って、複雑で救われるためには、何年もの勉強や修行、悟りが必要だというわけではありません。ローマ10:13に「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」とあるように、キリストのお名前を知り、信じ、「主イエスさま。あなたこそキリストです。私を救ってください。」と、キリストのお名前を呼び求める時、人は救われるのです。「イエス・キリストのお名前によって祈ります。」とキリストのお名前を呼んで祈る時、その祈りは聞かれるのです。このすばらしいキリストのお名前を知り、そのお名前を呼び求めて、救いを受け、神の恵みの中に生きる幸いな者となりましょう。

 三、御名を賛美する

 教会は、キリストのお名前を知り、告白し、そして、賛美するところです。ピリピ2:9ー11に「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」とあるように、イエス・キリストのお名前は天にも地にもただ一つのほめたたえられるべきお名前です。「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもの」というは、「全世界のあらゆるところで」という意味でしょう。あらゆるところで、キリストの名前があがめられるのなら、教会ではなおさらのことです。

 ところが、教会に世の中と同じ考え方が入って来ると、キリストのお名前があがめられることよりも、人間の名前が褒められることに心が向かってしまうことがあります。世の中では「だれがいちばん有名か。どちらがより上か。」などといったことが、何よりも関心の的になっていますが、教会ではそうであってはなりません。これは、ずっと以前、日本のある教会の牧師から聞いたことですが、その教会で、奉仕分担の表を貼りだしました。牧師が、それぞれの担当者がすぐ分かるように工夫して書いたのですが、それを見たひとりの人が、すごい剣幕で牧師のところにやってきて、「先生。なぜ、私の名前が、あの人の名前の下にあるんですか。私のほうが、あの人よりもずっと以前からこの教会に来ているんですよ。」と食ってかかったというのです。この人は、本人が言うように長年のクリスチャンであったかもしれませんが、教会について、また、クリスチャンの生き方について、勘違いをしています。教会は、そこで自分の名前をあげるところではなく、そこでは、みんなが自分の名前のことを忘れて、イエス・キリストのお名前を高く掲げるところなのです。

 皆さんが野球を見に行ったとしましょう。皆さんのひいきのチームが9回表までずっとおされぎみだったのに、9回裏に満塁になり、ホームランが出て逆転したら、ホームランを打った選手は、試合が終わってから、殊勲選手としてインタビューを受けますね。その選手が再び姿を現す時、観客のみんなが、その選手の名前を呼んで、その栄誉をたたえるでしょう。そんな時に、自分の名前がどうだの、ああだのという人は、誰もいませんね。それは、教会でも同じです。今、私たちがここに集まっているのは、勝利の主イエス・キリストをほめたたえるためです。主イエスはただひとりほめられるべきお方です。主イエスは、十字架で死なれましたが、その死は決して敗北の死ではありませんでした。主イエスは、ご自分の死によって私たちの罪を解決し、死に打ち勝って復活され、天に昇り、今、父なる神の右の座で、王の王、主の主として君臨しておられる方です。私たちは、この主イエス・キリストのお名前を呼び、そのお名前を賛美しているのです。みんながキリストのお名前を賛美する教会で、自分の名前が誰の上に書かれているとか、誰の下になっているとかいうことは、全く無意味なことではないでしょうか。私たちの教会が、世の中に毒されず、人間の上下など意識せず、ただキリストのお名前を高く掲げる教会であることを感謝します。

 今日は、メッセージの後、主イエス・キリストを告白して、バプテスマを受けた方々とご一緒に聖餐を守ろうとしています。聖餐の時、主イエスは「わたしを覚えてこれを行いなさい。」(ルカ22:19)と言われました。主が「わたしを覚えて…」と言われたように、私たちは今、私たちの思いを、ただひとり、すべてのものの上におられるイエス・キリストに向けましょう。どんな人の名前も及ばない、高く、きよく、力あるキリストの名前だけを覚えましょう。このお名前の前に、共に膝をかがめ、すべてにまさる主イエス・キリストのお名前を心から賛美していきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちに主イエス・キリストのお名前を与えてくださったことを感謝いたします。主イエスのお名前を呼ぶ時、私たちは罪から救われます。主イエスのお名前によって祈る時、その祈りは聞かれます。このすばらしいお名前をさらに深く知ろうとする飢渇きを、その名を呼び求める信仰を、すべてのことを主イエスの名によってなす生活を、そして、主の名を大胆に宣べ伝える勇気を、なおも、私たちに与えてください。この後の聖餐を通しても、主イエス・キリストの御名を心に深く覚えることができるよう導いてください。すべてのすべてにまさる主イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/27/2005