人とは何者なので

詩篇8:1-9

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8:1 【聖歌隊の指揮者によってギテトにあわせてうたわせたダビデの歌】主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。あなたの栄光は天の上にあり、
8:2 みどりごと、ちのみごとの口によって、ほめたたえられています。あなたは敵と恨みを晴らす者とを静めるため、あだに備えて、とりでを設けられました。
8:3 わたしは、あなたの指のわざなる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。
8:4 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。
8:5 ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、
8:6 これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました。
8:7 すべての羊と牛、また野の獣、
8:8 空の鳥と海の魚、海路を通うものまでも。
8:9 主、われらの主よ、あなたの名は地にあまねく、いかに尊いことでしょう。

 先週(2013年10月13日)、やなせたかしさんが亡くなりました。やなせさんはこども絵本・アンパンマンの原作者ですが、「ぼくらはみんな生きている」という歌の作詞者としてもよく知られています。アニメ・アンパンマンの主題歌もやなせさんの作詞によるものです。アンパン・マーチを聞いてみましょう。

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

何の為に生まれて 何をして生きるのか
答えられないなんて そんなのは嫌だ!

今を生きることで 熱いこころ燃える
だから君は行くんだ微笑んで

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえ胸の傷が痛んでも

ア、ア、アンパンマン優しい君は
行け!みんなの夢守る為

何が君の幸せ 何をして喜ぶ
解らないまま終わる そんなのは嫌だ!

忘れないで夢を こぼさないで涙
だから君は飛ぶんだ何処までも

そうだ!恐れないでみんなの為に
愛と勇気だけが友達さ

ア、ア、アンパンマン優しい君は
行け!みんなの夢守る為
時は早く過ぎる 光る星は消える
だから君は行くんだ微笑んで

そうだ!嬉しいんだ生きる喜び
たとえどんな敵が相手でも

ア、ア、アンパンマン優しい君は
行け!みんなの夢守る為

 この歌は、幼稚園のこどもが歌うには、とても深い内容の歌詞です。やなせさんがこの歌詞を書いたとき、「何の為に生まれて、何をして生きるのか」「何が君の幸せ、何をして喜ぶ」などを幼稚園のこどもが考えるわけがないと批判されたこともありました。でも、やなせさんは「子どもの頃から、ずっと歌っていると、(そういうことを)考えることが自然と身に付く」と答えています(中日新聞10月16日号)。「何の為に生まれて、何をして生きるのか」「何が君の幸せ、何をして喜ぶ」という歌詞は、人生の目的や意味を求める、人の心を歌ったものです。それは人が一生の間、それを知ろうと追い求めてやまないものです。そして、人生の意味や目的を知ったとき、人は本当の意味での幸せを手にし、生きる喜びを味わうことができるのです。

 一、問い

 詩篇8:4では、人生の意味や目的を「人とは、何者なのでしょう」「人の子とは、何者なのでしょう」(新改訳)という言葉で問いかけています。自分が何者かを知る、それは、人生の意味や目的を知ることと同じことです。みなさんは、自分が何者か知っていますか。「あなたは何者か」という質問に答えられるでしょうか。

 「宇宙戦艦ヤマト」というアニメがあります。未来の世界で、地球がガミラス人の宇宙征服者デスラー総統によって滅ぼされようとしています。その地球を救うため、宇宙戦艦ヤマトがイスカンダルという星までコスモ・クリーナーを受け取りにいくという物語です。その中に、ヤマトが捕まえたガミラスのアンドロイドとヤマトのロボット、アナライザーとの対話の場面があります。ガミラスのアンドロイドは「オルター」と名付けられ、オルターからガミラス人の情報を得るため、アナライザーがオルタと対話するのです。それは、こんな対話です。

オルター「きのう、女神に会いました。」
アナライザー「女神?」
オルター「この船の女神です。」
アナライザー「誰のことだろう?…」
オルター「お前は誰だと問われました。『わたしはオルター』と答えましたが、『名前を聞いているのではない』と言われました。…あなたは答えられますか。お前は何者か?」

 「あなたは何者か」という問いには、名前を答えるだけでは答えにはなりません。では、「わたしは教師です」「わたしは技術者です」と答えれば良いのでしょうか。それは職業を答えているだけで、本当の答えにはなっていません。「わたしは、二人の子どもの母親です」とか、「三人の子どもの父親です」と答えれば良いのでしょうか。それは立場を答えているだけです。「わたしは日本人です」というのは人種を答えているだけです。「わたしはアメリカ市民です」というのは国籍を答えているだけです。「わたしは毎日、子どもを教えています」というのは、何をしているかということに答えているだけです。どれも「あなたは何者か」ということの本質的な答えになっていません。

 私たちは自分が何者かということを問いかけることもなく過ごしてきました。今も、そうしたことをあまり考えないでいるかもしれません。けれども、ものごとがうまく行かなくなったり、孤独を感じたりしたときには、「わたしはいったい何者なんだろう。わたしは今、ここで何をしているんだろう」と考えてしまうこともあります。しかし、神は絶えず、私たちに、「あなたは何者か」と語りかけていてくださっています。でも、私たちは毎日忙しくしていて、神の声を聞かないでいるのです。でも自分を振り返らなければならない時がきます。そのようなときは、「あなたは何者か」という神の語りかけに答える良い機会です。「わたしは何者なのだろう」と考え、その答えを求めることは大切なことです。その答えを得ることができたなら、私たちは、自分を見失うことなく、価値ある生き方ができるようになります。しかし、「あなたは何者か」という問いにどう答えれば良いのでしょうか。「わたしは何者か」という問いへの答えは、いったいどこにあるのでしょうか。

 二、答え

 聖書は、「あなたは何者か」、あるいは「わたしは何者か」という問いの答えは、人間の側にあるのではなく、人を造った神にあると教えています。詩篇8篇は4節で「人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、人の子は何者なので、これを顧みられるのですか」と問いかけたあとで、「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ、これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」(5、6節)と答えています。神が人をどのように、何のために造られたかということの中に、「人とは、何者なのでしょう」という問いへの答えがあると言っています。

 詩篇8:5-6の言葉は、人間の創造を描いている、創世記1:26-28から取られています。創世記1:26-28にはこう書かれています。

神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。」神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」

 詩篇8:5の「ただ少しく人を神よりも低く造って、栄えと誉とをこうむらせ」というのは、人が神のかたちに造られたことを意味しています。8:6の「これにみ手のわざを治めさせ、よろずの物をその足の下におかれました」とは、神が、人間にこの世界を治める務めを与えたことを意味しています。神はこの世界のありとあらゆるものをお造りになりましたが、人間以外の生き物は、それぞれ「種類にしたがって」造られています。この「種類」という言葉が生物の分類の何をさしているのかは良くわかりません。それは、神のおこころの中にあった「設計図」だと言って良いと思います。神は、様々なものをお造りになるとき、あらかじめ数多くの違った「設計図」をお持ちになっていて、それぞれの生き物を「設計図」ごとに造っていかれたのです。ですから、イヌは、小さなイヌでも大きなイヌでも、毛の長いイヌでも短いイヌでも、みなイヌとして共通の姿や形、習性を持ち、みな似通っているわけです。それは同じ設計図から造られたからでしょう。また、ネコはネコの「設計図」で造られました。ネコよりも小さなイヌがいても、イヌはやはりイヌで、間違えてもイヌは「ミャオー」とは鳴きません。

 では、人間は、サルやチンパンジーなどと同じように、「霊長類」という「設計図」にしたがって造られたのでしょうか。人間はサルやチンパンジーと姿形や習性が似ていると言われます。しかし、それは人間の目から見てそうであるだけで、神の目から見るなら、人間は他の霊長類と根本的に違っています。他の霊長類は、「霊長類」という種類の「設計図」にしたがって造られました。しかし、人間は「霊長類」とは別の「設計図」で造られました。その「設計図」は神ご自身なのです。人間は、サルやチンパンジーに似せて造られたのではなく、神に似せて造られました。「神のかたち」に造られたのです。「人とは何者か」という問いの答えは、じつに、人が「神のかたち」に、「神に似せて」造られたというところにあります。「人は神のかたちである。」これが、聖書が教える、「人とは何者か」の答えです。

 「神のかたち」とは、神のご性質のことです。神が愛やあわれみを持ち、聖く、正しいお方であるように、人もそのご性質の一部を持つ者として造られました。また、「かたち」とは「実体」を表わすものです。人は目に見えない神を表わすものとして造られたのです。人は、この世界に向って、神を表わし、示す使命を与えらているのです。ウェストミンスター小教理問答は、その最初の問答で次のように言っています。

問 人のおもな目的は、何ですか。
答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

 「神の栄光」とは、神のご性質を束ねたものです。一本の花のひとつひとつが神のご性質だとすると、それらを束ねた、花束、それが神の栄光です。「神の栄光を表わす」とは、人が、自分のうちに「神のかたち」として与えられた神のご性質のひとつひとつを、この地上で表現していくことです。人は「神のかたち」に造られているので、神に造られた被造物でありながら、この世界の他の造られたものに対して神の代理人となることができるのです。

 創世記や詩篇が言うように、人間は、神の代理人としてこの世界を治める知恵と力を与えられています。人間は自然を開発してきました。ある程度それをコントロールしてきました。しかし、それは、人間が好き勝手にこの自然を荒らして良いということではありません。神が造られた世界を、神のいつくしみの心で大切に世話していかなければならないのです。

 「人は神のかたちに造られた」「人は神の栄光を表わすために生かされている」などといったことは、はじめてそのようなことを聞く人には、とても抽象的で、とらえどころがないように思えるかもしれません。しかし、それを知ることが、私たちの人生に確かな基盤を与えるのです。「わたしは神に造られている」「わたしは神のかたちである」ということが分かるとき、私たちは、「わたしは何者か」という答えを持つことができます。やなせさんの歌にある、「何の為に生まれて、何をして生きるのか」が分かるのです。それは、人生の意味や目的を悟るということだけで終わるものではありません。それは、神のかたちに造られながら、神のご性質を表わすこともなく、自分のうちにある神のかたちを失っていた者を救い、イエス・キリストによって、もういちど神のかたちに造り直してくださった神の恵みに感動すること、感謝することです。イエス・キリストによって自分のうちにある神のかたちを育てていただき、日常の中で神の栄光を表わす生き方を、具体的に教えられ、導かれていくことです。

 詩篇8篇では、「人とは、何者なのでしょう」という言葉は、問いかけの言葉であるとともに、人間が神のかたちに造られ、この地を治める権限さえ与えられているということへの驚きの言葉にもなっています。厚みを持ったクエスチョンマーク(疑問符)を横に90度回して見ると、厚みの部分だけ見えてエクスクラメーションマーク(感嘆符)になります。神に向って「わたしは何者なのだろう」という問いを問い続けていくとき、神は、その問いに答えて、イエス・キリストにある恵みを示してくださいます。そのとき、私たちのクエスチョンマーク(疑問符)はエクスクラメーションマーク(感嘆符)となって、神への感謝にあふれるのです。その感謝から、生きる喜びが出てきます。この感動、喜びを、イエス・キリストによって体験してください。

 それを体験した後も自分を見失うことがあるかもしれません。クリスチャンであっても、「何の為に生まれて、何をして生きるのか」が分からなくなるときがあるかもしれません。しかし、そんなときでも、「わたしは何者なのでしょう」と神に問いかけることができます。そして、神からの答えをいただくことができるのです。また、自分が何者か分かっているつもりでいて、じつは、分かっていないこともあるでしょう。それに気づいたなら、真剣に、この問いを問いかけましょう。たえず、本来の自分を求め、それを見出す感動を新しくして、意味と目的のある人生を進んでいきましょう。

 (祈り)

 神さま、あなたは、私たちを、あなたに似せ、あなたのかたちに造ってくださいました。そればかりでなく、神のかたちを失ったわたしたちのために、あなたの御子イエス・キリストを送ってくださいました。わたしたちが神のかたちを取り戻し、神に造られた本来の姿となって、意味と目的を持った生き方ができるためでした。すべての人の心にある「わたしは何者なのでしょう」というたましいの問いへの答えはイエス・キリストにあります。私たちがあなたからの問いかけに真剣に応答し、自分のたましいの問いかけに忠実に従うことができますに。問うことによって、イエス・キリストにある答えを得ることができますように。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/20/2013