こころの一新

ローマ12:2

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12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

 一、この世の影響

 皆さんは、ひさしぶりに日本に行ったとき、人混みの中で誰かにぶつかりそうになり、つい "Excuse me." と英語が出てしまったことがありませんでしたか。人と挨拶するときに、相手が先におじぎをして、握手するために差し出した手を引っ込め、慌てて頭を下げるといったこともあったでしょう。最近の日本はずいぶんアメリカ的になってきましたが、それでも、たまに日本に行くと、自分の言動がアメリカのやり方になってしまっていることに気づくことがあります。

 わたしたちは、知らず知らずの間に、環境、社会、文化に影響され、それに形づくられています。そうした影響は、今までは長い年月をかけて人々に及んできたのですが、テレビの時代になって、短い期間に多くの人々に及ぶようになりました。とくに、アメリカのコマーシャル・メッセージはしつこくて、ニュースを見ようとテレビをつけると、ニュースとニュースの間に四つも、五つもコマーシャル・メッセージが繰り返されます。コマーシャル・メッセージにうんざりしているにもかかわらず、買い物に行くと、ついテレビで見たものを買ってしまうのです。"As Seen on TV" という宣伝効果に操られているのです。

 テレビからインターネットの時代になって、こうした傾向が加速しました。インターネットの情報の中には十分に検証されていないもの、断片的で偏見に満ちたもの、悪意の含まれたものも数多くあります。気をつけていないとそうした情報に振り回されてしまいます。クリスチャンも、知らず知らずのうちに、この世の物の考え方に染められてしまうことがあります。それで聖書は「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」(ローマ12:2)と、わたしたちに教えているのです。「この世と妥協してはならない」は、英語で "Do not be conformed to this world" と訳されています。"conform" には「同じ形になる」「同化する」という意味があります。この世の力は、人々を、クリスチャンでさえも、同じ姿かたちに形づくろうとするのです。

 「ガベージ・イン、ガベージ・アウト」という言葉があります。間違った情報を取り入れれば、間違った結果が生まれるという意味です。つまらないものしか見聞きしていなければ、つまらない人生しか生きることができません。けれども健全な言葉に耳を傾け、美しいものに目を向けているなら、わたしたちもまた健全な者になり、美しい者となっていきます。ピリピ4:8は「最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」と教えています。暗い出来事ばかりが多い世の中ですが、そんな中にも美しいものはまだまだ多くあります。暗い面ばかりに目をとめ悲観的にならず、明るい面にも目を注いで、そうしたものから喜びや希望、そして励ましを得たいと思います。

 二、神による変化

 聖書は「この世と妥協してはならない」と言ったあと、「心を新たにすることによって、造りかえられなさい」と言います。「妥協する」は英語で "be conformed" でしたが、「造りかえられる」とは "be transformed" です。"conform" は「同じ形になる」でしたが、"transform" には「別の形になる」という意味があります。"transform" の名詞の形は "transformation" です。蝶が卵から幼虫、幼虫からさなぎ、さなぎから成虫へとからだの仕組みを変えていく、そんな大きな変化を表わす言葉です。クリスチャンは、すでに、この世から救い出されて天の国民とされ、神の子どもにしていただきました。神の子どもとしての立場や身分、特権だけでなく、神の子どもとしての性質も受けました。子どもが成長していくにつれ、だんだんと兄弟や親に似ていくように、神の子どもも成長してキリストに似た者になり、生涯をかけて神の子どもらしくなっていくのです。このことを聖書は「栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく」(コリント第二3:18)と言っています。聖書は、神がイエス・キリストを信じる者をすでに新しく造り変えてくださったのだから、もういちど古い形に戻るようなことがあってはいけない。主と同じ姿へと変えられ続けなさいと教えているのです。

 この変化は「心を新たにすることによって」とあるように、「こころの一新」によってなされます。ここで「心」と訳されている言葉は「理性」を指します。「心」にはものごとを理解したり、感じ取ったり、また決断したりといった働きがありますが、この場合は、基本的な物の考え方を指しています。神を信じるとは、知性や理性を否定することではありません。むしろ、信仰によって今まで曇っていた知性がもっと明らかになり、今まで混乱していた理性が正しく機能するのです。「こころの一新」とは、感情の面でちょっと気持ちを切り替えるというだけのことではありません。心の深みから変えられていくこと、物の考え方が変えられていくことです。人は物の考え方が変わらないかぎり、感情も行動も変わることはありません。聖書の教えに触れて感動し、すこし態度を改めたとしても、それは人をほんの少し道徳的にし、ちょっぴり「敬虔」にさせるだけです。決して長続きはしません。その心の中に神を知らなかったときと同じ価値観がどっかと腰をおろしている限り、わたしたちは良い方向に向かって変えられていくことはないのです。

 聖書に「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」(コリント第一14:20)とあります。「愛の神がわたしとこの世界を導いておられる。」このことがわたしたちの物の考え方の出発点となり、基礎となるなら、わたしたちは決して生きる意味と目的を見失うことがありません。人生を投げ出してしまうこともありません。今まで気に留めなかった他の人の痛みや苦しみに共感できるようになり、人への配慮や影響を考えて自分の言動に気をつけることができるようになります。また、いたずらに恐れたり、逃げ腰になることなく、正しいことを行う勇気や確信が与えられます。自分と人とを比べて劣等感に陥ったり、優越感に溺れたりすることなく、過去の罪や失敗から解放され、こころの傷がいやされていきます。物の考え方(理性)や物の感じ方(感情)が変われば、そこから言葉や態度、そして行動が変わってきます。そして、日々の行動の変化がその人の人生を変え、生涯を変えていくのです。

 クリスチャンとなったのに、その人生に対する態度が少しも変わらない、その生活や人間関係が改善されない、人格的な成長がないというのは残念なことです。少しづつ、一歩一歩でも良いのです。神に向かって前進していく、より神の子どもらしく生きていく、そんな歩みをしたいと思います。

 三、変化の継続

 わたしたちの変化、成長は、「造り変えられる」という言葉が受け身であるように、わたしたちの力によってではなく、わたしたちの内で働いてくださる神によってもたらされます。しかし、それは神がなさるのだから、わたしたちは何もしなくて良いということではありません。神が働いてくださりやすいように、自分を整えておく必要があるのです。

 それは、第一に「わたしを変えてください。変え続けてください」と祈り求めることからはじまります。わたしにバプテスマを授けてくださった牧師先生は「信仰生活は坂道を自転車で登るようなものだ。いつも向上を目指していないとバックスライドしてしまう」と、くりかえし話しておられました。この世はわたしたちを同化しようとやっきになって働きかけているのです。外側からわたしたちを変えようとする力に打ち克つために、内側から私たちを変えてくださる神の力をさらに願い求めていきたいと思います。

 第二に、神の言葉、聖書を学ぶことです。ローマ12:2は「何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである」と言っていますが、神のみこころや神に喜ばれること、また正しく完全なものはすべて聖書にあります。聖書には、読んですぐに分かるところもあれば、分かりにくいところもあります。自分の生活との関係がすぐ分かる部分もあれば、「遠い昔のイスラエルの歴史がわたしに何の関係あるのだろう」と思えるような部分もあります。しかし、聖書の言葉のすべては、神がわたしたちと共にいて、わたしたちのために働いておられることを証しするものです。今は、自分の生活との関連が分からない箇所でも、やがてそのことが分かる時が来ます。そして、神の言葉がどんなにかわたしたちの人生にとって導きとなり、力となり、慰めとなるかを知り、そのことに感謝する日がやってきます。

 第三はクリスチャンの互いのまじわりです。最初に「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するもの…をこころにとめなさい」との御言葉を引用しましたが、これは、聖書からというよりは、周りの人々から学びとるようにとの勧めです。わたしたちは聖書とともに、聖書に従って生きようとしている他の信仰者から、多くのことを学びます。子どもは兄弟、姉妹、友だちといっしょに遊んだり、勉強したりして成長していきます。そのように、神の子どもたちもキリストにある兄弟、姉妹から学び、信仰の友からさまざまなことを教えられて成長するのです。「教育」は「教え、育てる」と書きますが、それは「共に、育つ」と書いてもよいほどです。実際、ある教会では「共育」という漢字を使っていました。わたしたちは、まじわりの中で成長し、変えられていくのです。

 わたしたちが成長し、変えられるためには証しをする、奉仕をする、ささげものをするなどいったことも大切です。こうしたことすべてを一度にできるところをご存知でしょうか。それは「礼拝」です。礼拝には賛美と祈りがあり、御言葉と証しがあり、まじわりと奉仕、そしてささげものがあります。神の子どもとして成長するためのものがすべて、ぎっしり詰まっているのです。週に一度の礼拝をしっかりと守ることによって、わたしたちは、わたしたちを変えてくださる神の働きを受け続けることができるのです。

 礼拝を守るためには日曜日を守る必要があります。土曜日と日曜日は「ウィークエンド」と呼ばれ、最近のカレンダーでは一週間が月曜日から始まっているものも多くあります。しかし、実際は、聖書にあるように、日曜日は「週のはじめの日」であり、「主の日」です。古代から一日は日没とともに始まると考えられてきましたので、教会によっては土曜日に日曜日と同じ礼拝が行われ、地域によっては土曜日の午後から商店が店を締めるところもあります。「日曜日に教会に持っていくものは土曜日のうちに用意しておきなさい。土曜日は夜ふかしをしないで早めに休みなさい」と、わたしは教えられてきましたが、最近はそうしたことが教えられなくなり、守られなくなりました。若い人たちが土曜日に夜ふかしをし、寝坊をして礼拝に遅れたり、休んだりする。説教を子守唄に眠っているといったことがあるようです。どんなに時代が変わっても、ライフスタイルが変化しても、日曜日が「主の日」であることは決して変わりません。一週間の七日すべてを「わたしの日」にしてしまってはいけないのです。それこそが「この世と同化すること」です。一年のうち何度かは仕事の都合、病気、家族の世話などでやむをえず礼拝に出れないこともあるでしょう。ですから、都合をつければ礼拝に出られるときまで礼拝を休むことがないようにしたいと思います。都合がつくのに礼拝に出ないでいると、今度は礼拝に出たくても出られなくなってしまうかもしれません。礼拝に出ることができることが、どんなに幸いなことであり、この世を生きる力になるかは、多くの人々が証ししています。迫害や困難のただ中で礼拝を守っている人々のことを思うと、自由に礼拝ができることが、どんなに大きな特権かが分かります。この特権を簡単に捨て去ってはならないのです。

 「こころの一新」は、英語で“renewal of mind” です。神から頂いた変化は簡単に「有効期限切れ」になるものではありませんが、週ごとの礼拝でさらに豊かなものになるように「リニューアル」していく必要があります。あるとき、ア・カペラのコラールを聞く機会がありました。大勢の人が無伴奏で歌いますので、音程が狂うと綺麗なハーモーニーが生まれません。それで、曲と曲の合間に指揮者が笛を吹き、メンバーはその音に音程を合わせていました。テレビで見た男性四人のグループでは音叉を使っていました。そうしたものを見て、わたしは、クリスチャンにとって礼拝はコーラスで使われる笛や音叉のようなものだと思いました。わたしたちは礼拝で、わたしたちの心や生活が神のみこころにそったものになるようにとチューニングしてもらうのです。神が与えてくださった成長と変化の場、礼拝をしっかり守り続け、成長への歩みを続けていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは、あなたの命から遠く離れ、神の形を失っていました。そんなわたしたちを、あなたはあわれんで、イエス・キリストによって救い、神の子どもとし、わたしたちをキリストに似たものへと変えようとされました。わたしたちは、この礼拝で自分自身をささげます。わたしたちを造り変え続けてくださる、あなたの恵みと力を、わたしたちの内側に体験させてください。そのことによって、わたしたちを引きこもうとするこの世の力に打ち克つことができるよう助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/14/2014