19:28 それから、イエスはすべてのことが完了したのを知ると、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。
19:29 酸いぶどう酒がいっぱい入った器がそこに置いてあったので、兵士たちは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝に付けて、イエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。
イエスは十字架の上で七つの言葉を語られました。ヨハネは、その七つのうち、三つを記録しています。ヨハネ19章の26-27節、28節、そして、29節です。私はそれぞれに「愛の言葉」、「希望の言葉」、「救いの言葉」というタイトルをつけてみました。
一、愛の言葉
26-27節は「愛の言葉」で、母マリアと弟子ヨハネに語られたものです。「イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に『女の方、ご覧なさい。あなたの息子です』と言われた。それから、その弟子に『ご覧なさい。あなたの母です』と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。」
肉親の死に出会うことほど辛いことはありません。両親や年上の兄や姉が亡くなるのでさえ、大きな心の痛みなのに、子どもに先立たれたり、弟や妹が先に亡くなったときには、悲しみは何倍にもなります。以前のことですが、高齢になっても、しっかりしていて、サンデースクールの大人のクラスの一つを受け持っていた一人の姉妹がいました。彼女の息子が突然、病気で亡くなりました。それをきっかけに彼女は記憶が混乱して、奉仕から退きました。そのときの彼女の姿はとても痛々しいものでしたが、信仰を持った家族がよく世話をし、平安な晩年を送ったことは、私にとって慰めでした。
ヨハネ19章で、母マリアは、我が子の死に直面しています。しかも、それは普通の死ではありません。罪を着せられ、痛めつけられ、辱められ、人々から嘲られ、神からも見放され、のろいの木の上で死んでいかれるのです。そんな姿を見つめる母マリアの心はどんなに痛みと悲しみでいっぱいだったことでしょう。
そんな母マリアを支えたのが弟子ヨハネでした。ヨハネは12弟子の中で一番若かったのですが、他の弟子たちがイエスを見捨てても、最後までイエスから離れず、母マリアをまるで自分の母親のようにして支え、十字架の近くまでついていきました。それでイエスは、母マリアに、「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言い、ヨハネに「ご覧なさい。あなたの母です」と言って、母マリアを弟子ヨハネに託されました。27節に「その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った」とあるように、ヨハネはイエスの言葉通りに、母マリアが亡くなるまで世話をしました。
イエスはご自身が極限の痛みと苦しみを受けながらも、遺していく母を気遣い、母とヨハネに「養子縁組」をさせ、母のために実際的、具体的な備えをされました。イエスのこの優しさはご自分の母だけに対するものではありません。子どもを亡くした母、母を亡くした子ども、また、愛する者を亡くした人々、さらに、どんな辛い状況にある人にも向けられています。イエスは、それらの人々が悲しみを乗り越え、希望をもって歩み続けることができるよう、最善の道を備えてくださるのです。十字架は、全人類、全世界の救いのために立てられたものですが、それと同時に、十字架は、私たち一人ひとりのさまざまな状況に対する神のいつくしみと愛のご配慮を示すものでもあるのです。私たちの身のまわりで起こるどんな出来事も、日常の一切のことも、イエスにゆだねることを学びたいと思います。イエスは必ず、それに答えてくださり、道を備えてくださいます。
二、希望の言葉
28節の「わたしは渇く」には、「希望の言葉」というタイトルをつけましたが、なぜ、イエスの渇きが私たちの希望となるのでしょうか。ほんらい、イエスは渇くのことのないお方だからです。イエスは言われました。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。」(ヨハネ7:37)イエスは私たちのたましいの渇きを満たしてくださるお方なのに、そのイエスが「わたしは渇く」と言われました。それは、イエスが私たちに代わって、私たちのたましいの渇きを引き受けてくださったこをを意味しています。最も完全なお方が私たちの病いを引き受け、傷つき、痛みを耐えられました。最も力あるお方が私たちの弱さを引き受け、無力な者になられました。あらゆるものに満たされたお方が私たちの欠乏を引き受け、渇きを覚えられたのです。それがイエスの十字架です。私たちはイエスの傷によって癒やされ、イエスの弱さによって強められ、イエスの渇きによって満たされるのです。とても逆説的なことですが、これが神の定められた救いの方法なのです。
「弱い人間が信仰にすがるのだ」と、よく言われます。しかし、この世に弱くない人間がいるのでしょうか。誰もが困難にたじろぎます。悲しみに打ちのめされます。不安にさいなまれます。誘惑に負けます。それが人間です。私たちには、私たちの弱さを知った上で、それを満たしてくださる救い主が必要です。信仰のいらない人など誰もいません。そういう人は、自分の弱さ、足りなさに向き合わないで、ただ強がっているだけ、自分の渇きをごまかしているだけです。イエスを知らなかったとき、私たちは心の渇きを覚えていました。気を紛らわしてそれを感じないようにしていました。しかし、われに返ったとき、それを強く感じ、「イエスさま、私を満たしてください」と祈り、求めました。私たちの渇きを知っておられるイエスは、祈りに聞き、私たちを満たし、潤してくださいました。
「わたしは渇く。」この言葉はまた、イエスが、ご自分への侮辱を残らずお受けになるために語られた言葉でもありました。詩篇69:21に「彼らは私の食べ物の代わりに 毒を与え/私が渇いたときには酢を飲ませました」とあります。この詩はダビデ彼が自分の体験を書いたものですが、同時に、それは「ダビデの子」として来られる救い主が、「苦難のしもべ」として体験する苦しみを預言したものでした。甘いワインではなく、苦い酢を飲ませられるというのは、救い主がそれにふさわしく歓迎されることなく、裏切られ、侮辱されることを意味しています。
「わたしは渇く。」イエスがそう言われるのを聞いた兵士は海綿に「酸いぶどう酒」を含ませ、それをヒソプの枝につけてイエスの唇を濡らしました。この「酸いぶどう酒」というのは、ぶどう酒が発酵しすぎたもので、実際はぶどう酒ではなく「酢」になってしまったものです。グロッサリー・ストアでは「ワイン・ビネガー」として売られています。処刑場にそれが置かれていたのは、おそらく、気付け薬として使うためだと思われます。かつて、ヨーロッパでは、人々は気付け薬を持ち歩き、それを入れる小さな器は「ヴィネグレット」(Vinaigrette)と呼ばれたのですが、「ヴィネグレット」は「酢」を意味します。酢が、古代に気付け薬として使われたので、そんな名前がつけられたのかもしれません。酢には血糖値や血圧を下げるなどの効果がありますが、空腹のときに酢を飲むと胃酸が増えすぎて胸やけが起こります。また、酢を多く摂ると喉が渇きます。寿司屋で大きな湯呑みでお茶が出てくるのはそのためでしょう。ですから、「わたしは渇く」と言われたイエスに酢を飲ませるのは、渇きに渇きを加えることで、それはイエスをさらに苦しめるものだったのです。
28節には、「聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」と書かれていますが、それは、救い主が受けると預言されていた苦しみのすべてを、イエスが一つ残らず引き受けられたことを意味しています。イエスがそのようにして、私たちの救いを成就してくださいました。ここに私たちの希望があります。
三、救いの言葉
29節の「完了した」は「救いの言葉」です。イエスが、聖書の預言をすべて成就し、私たちのための救いを成し遂げられたという意味です。私たちも、苦労して何かをやり遂げたとき、思わず「ヤッター」と叫ぶだろうと思うのですが、イエスの「完了した」という言葉には、父なる神のみこころを成し遂げた満足や喜びの響きがあるように思います。
とはいっても、これはイエスの自己満足の言葉ではありません。イエスは、何よりも、ご自分の苦しみによって私たちのための救いが成就したことを喜ばれました。イエスが流された血潮は私たちの罪を赦し、聖めました。イエスのおからだが裂かれたとき、神殿の垂れ幕が上から下へと真っ二つに裂けましたが、それは罪人であった者が義人とされて神に近づくことができるようになったことを表しています。イエスが一度死なれ、復活されたことによって、罪の中に死んでいた私たちも、死から命に移ったのです。
これらすべては、イエスがお一人で成し遂げられたものです。私たちがそこに自分の努力や業績など、何かを付け加える必要はありませんし、そもそも、私たちが自分の救いのために出来ることなど何一つないのです。私たちにできることは、イエスが成し遂げてくださった救いを、信じて受け取り、感謝することだけです。
聖書はこう教えています。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げ、二度目には、罪を負うためではなく、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます。」(ヘブル9:27-28)人の人生も死もただ一度かぎりのものです。死んでは生き、生きては死ぬのを繰り返すわけではありません。そのようにイエスも、一度限りの死によって、私たちのための救いのすべてを成し遂げてくださいました。罪ある人間には「死後にさばきを受けること」が定まっているのですが、イエスは、そのさばきを私たちに代わって受け、私たちに救いを与えてくださったのです。イエスの十字架の死は、私たち一人ひとりの罪のための身代わりの死でした。そのことは、ペテロ第一3:18に次のように書かれています。「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方〔キリスト〕が正しくない者たち〔私たち〕の身代わりになられたのです。」イエスの死が私たちのための身代わりの死であることを見落とすなら、それがどんなに英雄的な死であったとしても、私たちの救いにはならないのです。しかし、事実、イエスは私のため、あなたのため、十字架で死んでくださいました。ここに私たちの救いがあります。
「完了した。」これは、私たちにとって、大きな慰めです。私たちは、神の前に出るとき、自分の罪深さや信仰の足りなさを思って、恐れや不安を感じ、身を縮めてしまうことがあります。そんなとき、イエスが「完了した」と言われたように、すでに救いが成し遂げられていること、イエスがすべてを成し遂げてくださったことを知ることは、大きな力となります。新聖歌232「弱き者よ われにすべて」は、英語では“All To Christ” という曲名で、おりかえしは“Jesus paid it all, All to Him I owe; Sin had left a crimson stain – He washed it white as snow.” となっています。じつは「完了する」という言葉には「支払う」という意味もあって、イエスは私たちの罪の負債をすべて支払ってくださったのです。私たちには、もう、何の負債もありません。“Jesus paid it all.” イエスがすべて支払ってくださり、私たちの罪は緋のようであっても、雪のように白くされたのです。イエスの救いは完璧なもので、信じる者の罪は、文字通り、一つ残らず赦されています。そのことを信じて、大胆に神に近づきたいと思います。
(祈り)
父なる神さま、イエスが十字架から語ってくださった愛の言葉、希望の言葉、そして救いの言葉を感謝します。一つひとつの言葉を心に刻みながら、この受難週を過ごします。イエスの十字架が私にとって、どんな意味を持っているのかを、なお深く教えてください。イエスが十字架によって成し遂げられた救いに堅く信頼する者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。
4/13/2025