見よ、この人を

ヨハネ19:4-5

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19:4 ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」
19:5 イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」

 ピラトが「見よ、この人だ」と言った言葉は、ラテン語で「エッケ・ホモ」(ecce homo)と言い、そのタイトルで数多くの絵が描かれました。この絵は、スイスの画家アントニオ・チゼリの1871年の作品で、民衆に語りかけるポンテオ・ピラトの姿を後ろから、写実的に描いています。聖書に書かれている情景を思い浮かばせてくれます。ピラトが言った「見よ、この人だ」、あるいは「見よ、この人を」という言葉にはどんな意味があるのでしょうか。私たちが見なければならないものは何なのでしょうか。

 一、罪のないイエス

 それは、第一に罪のないイエスです。イエスに何の罪もなかったことは、ピラトが何度も証言しています。ピラトは、祭司長たちが自分のところにイエスを連れてきたのは、ねたみから出たことを見抜いていました(マタイ27:18、マルコ15:10)。それで、この訴えを門前払いしょうとしたのですが、彼らに強く迫られ、裁判を引き受けることになりました。

 ユダヤの祭りの日には、総督が囚人に恩赦を与えるのが習わしになっていました。ピラトはイエスに何の罪も認められなかったので、その慣わしを使って、イエスを釈放しようとしました。「この人がどんな悪いことをしたというのか。彼には、死に値する罪が何も見つからなかった。だから私は、むちで懲らしめたうえで釈放する。」(ルカ23:22)そう言って、ピラトはイエスを兵士たちの手に渡しました。しばらくして、兵士たちによって鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、紫色の衣を着せられたイエスが人々の前に立たせられました。そのイエスをさして、ピラトは「見よ、この人を」と言ったのです。

 ローマの権力者は、属国であるユダヤの人々を、罪がなくても捕まえ、処刑してきました。なのに、総督ピラトはイエスをかばい、その無罪を主張しています。そんなことはありえないことで、それは神がなさったことでなければ説明がつきません。ピラトが「イエスに罪はない」と言ったのは、たんにローマの法律に則って無罪であるということではなく、イエスには、どの人間にもある罪の性質がないことに気づいたからだろうと思います。イエスが持っておられたのは神としての「聖さ」で、それがピラトの心を打ったのです。ピラトのような政治家から見れば、「聖い」ことは、何の役にも立たないものと考えられていたでしょう。しかし、実際は、「聖くあること」が、最も人々に影響を与えるのです。私たちはみな、イエスの聖さやイエスを信じる人々が神からいただいて持っている聖さに触れ、信仰に導かれてきました。人が持つ強さ、豊かさ、賢さもまた人に影響を与えるでしょうけれど、最も影響を与えるものは「聖さ」です。

 イエスは「あなたの右の頰を打つ者には左の頰も向けなさい。…自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:39、44)と人々に教えました。イエスは、ご自分が人々に教えた通りに、頬を打ち、背中を鞭で撃ったローマ兵士に何の手向かいもされませんでした。ピラトはその姿を見て、ますますイエスが罪のないお方であることを確信したことでしょう。そして、そのイエスのお姿を見れば、イエスの処刑を要求している人々も、イエスに同情し黙るだろうと思い、イエスを群衆の前に立たせました。ところが、人々は、「イエスを十字架につけろ」と求め続け、ついにその声が勝ちました。聖なる神を知っているはずのユダヤの人々がイエスを罪に定め、異教徒のピラトがイエスを釈放しようとしました。まったく逆さまなことが起こりましたが、このことは、イエスが特別なお方、救い主であることの力強い証しの一つとなっているのです。

 ローマの歴史家タキトゥスは、『年代記』の第15巻44章にこう書いています。「皇帝ネロはクリスチャンと呼ばれる人々を憎み、滅ぼそうとした。クリスチャンの名は、キリストに由来し、彼は、皇帝テベリオの時代、総督ポンテオ・ピラトの手によって処刑された。」また、ユダヤ人の歴史家、フラビウス・ヨセフスは紀元94年にしるした『ユダヤ古代記』第18巻3章に、次のように書きました。「このキリストは、聖なる預言者たちが預言したように、三日目によみがえって、人々に現われた。クリスチャンと呼ばれる人々は今日にいたるまで滅びることなく続いている。」イエスは、イエスの弟子たちばかりでなく、イエスを信じなかった人々によってさえ、救い主であると認められ、証しされているのです。

 二、罪を背負うイエス

 ピラトが「見よ、この人を」と言って、人々に示したのは、私たちの「罪を背負うイエス」でした。イエスは全く罪のないお方なのに、最も大きな罪を犯した者に与えられる十字架刑に処せられました。罪のない者が罪ある者とされ処刑される。そんなことはあってはならないことなのですが、神は、罪ある者が救われるために、あえて、あってはならないことをされたのです。罪のないイエスが、罪ある私たちのための身代わりとなって死なれたのです。

 じつは、ピラトがイエスをさして「見よ、この人を」と言った3年前、バプテスマのヨハネも「見よ」と言って、イエスが罪のないお方であり、しかも、罪ある者の身代わりに死んでいかれることを示しました。ヨハネ1:29に、「その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』」とあります。

 犠牲の動物には、子羊以外に牛や鳥などもありました。それなのにイエスが「子羊」と呼ばれているのにはわけがあります。イザヤ53:6に「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った」とあります。ここでは人間が「羊」にたとえられています。羊には早く走る足も、身を守る角も、敵に食らいつく鋭い牙もありません。羊の目は近視で遠くを見ることができず、臭いも良く嗅ぎわけられないといわれています。羊は、愚かで迷いやすい人間を表わしているのです。神から離れて生きてはいけないのに、神から離れて自分勝手なことをしているのです。そんな人間を神のもとに立ち返らせるために、救い主は、一人の「人」となられました。羊の中の一匹となられたのです。それは、人間の罪と、そこから来る痛み、悲しみ、苦しみのすべてをご自分の身に引き受けるためでした。イザヤ53章は続けてこう言います。「しかし、主は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:6-7)イエスは、自ら進んで父なる神のみこころに従い、私たちのための苦しみを引き受け、命を献げてくださいました。イエスが「子羊」と呼ばれているのは、その従順なお姿を表すためでした。

 信仰は、神の言葉を「聞く」ことから始まりますが、聖書が描いているイエスを「見る」ことへと導かれます。四つの福音書のどれもが、イエスが十字架に向かわれ、その上で死なれたことに多くのページを割き、それを詳しく記録しています。私たちはそれを、毎年、レントの期間に繰り返し読みます。そして、読めば読むほど、イエスの姿が目の前に描き出されます。ガラテヤ3:1に、「ああ、愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、目の前に描き出されたというのに、だれがあなたがたを惑わしたのですか」という言葉があります。これは、「十字架につけられたイエス・キリスト」に目を向けることがクリスチャンにとってどんなに大切なことかを教えています。信仰にとって、何を「見る」かはとても大切なことであり、何に目を向けるかによって人生が変わってしまうからです。

 私たちは、ときとして、イエスを見失ってしまうことがあります。イエスが見えないと、困難なこと、苦しいこと、つらいことだけしか見えなくなり、すぐに失望したり、落胆したりしてしまいます。また、イエスに目を向けていないと、自分の願望や計画がイエスより大切になってしまうこともあります。そうすると、イエスから離れるだけでなく、求めているものも得られなくなってしまいます。そんなとき、私たちは「見よ、この人を」、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊を」との声に耳を傾け、その声に従ってイエスに目を向けましょう。私たちの救いのために十字架にかかられたイエスのお姿を心に描き、それによって、信仰の歩みへと立ち返りたいと思います。

 三、死に勝つイエス

 ピラトが「見よ、この人を」といって人々に示したイエスは、人の罪を負って死なれた「神の子羊」です。けれども、同時に、イエスは「王」です。古代には、王に対する挨拶は「王よ、永遠に生きられますように」(ネヘミヤ2:3、ダニエル2:4等)でした。日本語の「万歳」は、中国の皇帝への「万年までも生きられますように」と言った言葉から来ています。しかし、どんな王であれ、皇帝であれ、誰も永遠に、万年までも生きることはできません。人には皆、死を迎えるときが来、死に対して私たちは誰一人何もすることができません。しかし、イエスは、ただ一人、死んでよみがえられたお方、死に勝利された王です。

 イエスは、兵士たちに茨の冠をかぶせられ、紫色の衣を着せられました。この紫色の衣は、本物の紫布ではなく、ローマ兵の古びたマントだろうと思われます。ローマ兵のマントは赤いので、それが古びると紫に見えたのでしょう。兵士たちは、「おまえがユダヤの王なら、王冠がいるだろう。王の服もいるだろう」といって、茨の冠をかぶらせ、紫がかった色のボロ布をまとわせたのです。それはまことの王であるイエスに対する大きな侮辱でした。けれども、私たちは、このイエスのお姿を通して、イエスの王としての栄光の姿を仰ぎ見ます。イエスはよみがえり、天に昇り、父なる神の右に座し、王冠をかぶり、栄光の衣をまとっておられます。私たちは十字架を通しても、王としてイエスを仰ぎ見るのです。

 礼拝堂に飾られる十字架には様々あり、多くの場合、十字架だけのものか、十字架にかかられたイエスのお姿がつけられたものかのどちらかですが、私は、王冠をかぶり、王服を着たイエスのお姿がついた十字架も見つけました。それは、十字架ののちイエスが受けられる栄光を先取りして描いたものです。

 私たちは、十字架の上で苦しまれるイエスのお姿から目をそらしてはなりません。しかし、同時に、イエスがその苦しみを通して栄光をお受けになったお姿をも見上げたいと思います。使徒たちや初代の信仰者たちは、迫害を受け、十字架につけられさえしました。そんなとき、彼らは十字架の苦しみを耐えられたイエスのお姿とともに、天の御座で栄光のうちにおられるイエスのお姿をも仰ぎ見ました。そして、自分たちが今受けている苦しみも栄光に変わることを信じました。ペテロはこう教えています。「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」(ペテロ第一5:10)

 私たちも、種類や程度は違っても、様々な苦しみに出会います。その苦しみは他人からのものであったり、自分の罪や過ちの結果であったり、誰のせいでもない苦しみもあります。しかし、それがどんなものであっても、憐れみ深い主は、その苦しみの中で、私たちとともにいて、私たちを支えてくださいます。「わたしはあなたのために苦しみ、救いを勝ち取った。栄光はあなたのものだ」と語りかけてくださるのです。

 苦しみのとき、悲しみのとき、痛みのときにこそ、イエスに目を向けましょう。罪のない子羊イエスを見つめ、栄光の王イエスを仰ぎ見ましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちに、「見よ、この人を」と語りかけ、御子イエス・キリストに目を向け、見つめ続けるよう、諭してくださいました。十字架の上で命を献げられた神の子羊を、命と力と栄光のうちにおられる王なるイエスを見つめ続け、あなたからの命と力、慰めと励ましを受ける者としてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/6/2025