信じる者になれ

ヨハネ20:27-29

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20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。
20:28 トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」

 一、トマスの求め

 日曜日の朝早く復活されたイエスは、弟子たちに現われ、その手とわき腹を見せました。両手には十字架にかけられた時に打ち込まれた釘あとが、わき腹には槍で刺された傷あとが残っていました。弟子たちは、それを見て、イエスがよみがえられ、生きておられることを確認しました(ヨハネ20:19-20)。それはどんなに驚くべきこと、また、うれしいことだったことでしょう。

 ところが、その時、トマスは、そこに居合わせませんでした。他の弟子たちはトマスに、「私たちは主を見た」と興奮して伝えましたが、トマスは「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言って、他の弟子たちの言うことを受け入れませんでした(ヨハネ20:24-25)。

 では、トマスは復活を否定したのでしょうか。そうではないと思います。トマスは他の弟子たちが皆イエスを見たのに自分だけが見ていないので、取り残されたような気持ちになったのでしょう。「イエスは他の弟子たちに現われてくださったのに、なぜ私には現われてくださらなかったのか。」そんな悔しさがあったのでしょう。それで、「自分の目でイエスを見、イエスのからだに触れてみなければ信じない」と言い張ったのですが、トマスの心には、「私もイエスを見たい。イエスに触れたい」という強い願いがあったと思います。

 十字架にかかられる前の夜、弟子たちを教えてイエスはこう言われました。「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています。」それに対してトマスはイエスに言いました。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうしたら、その道を知ることができるでしょうか。」イエスが言われたことを理解できなかったのはトマスだけではありません。他の弟子たちも皆同じでした。他の弟子は、分からないことを分からないと素直に認め、イエスに質問しませんでした。しかし、トマスは正直に「分かりません。教えてください」と、イエスに答えを求めました。そして、イエスから「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」との答えを得たのです(ヨハネ14:3-6)。この答えはトマスが質問しなければあたえられなかったもしれません。

 なぜイエスはこんなことを言われ、こんなことをさるのか、分からないことが沢山あります。人間の限られた知恵・知識で神のなさること、神が言われることのすべてを知ることができるはずがないのですから、疑問、質問を持つのは当然のことです。神は私たちが知恵や知識に乏しいことを決して責められません。「あなたがたのうちに、知恵に欠けている人がいるなら、その人は、だれにでも惜しみなく、とがめることなく与えてくださる神に求めなさい。そうすれば与えられます」(ヤコブ1:5)とあるように、神は惜しみなく、とがめることなく、知恵を与えてくださいます。疑問や質問を持つことと疑うことは別物です。神の言葉を分かったつもりで聞き流すよりは、「なぜだろう。どうしてだろう」と考えながら、「主よ、教えてください」と求めていくなら、私たちの信仰はもっと確かなものになることでしょう。

 トマスは、英語で “Doubting Thomas”(疑い深いトマス)と呼ばれますが、それは正しいとは思いません。むしろ、“Questing Thomas”(探求するトマス)と呼ばれるべきだと思います。私たちも、謙虚に、熱意をもって、主を知ることを求め続けるなら、必ず答を得ることができます。だれでも、知恵を求める者には与えられ、答えを探す者は見つけ、たたく者には知識の宝庫が開かれるからです(マタイ7:7-8)。

 二、トマスへの答え

 イエスはそこにおられなくても、トマスが「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じない」と言った言葉をちゃんと聞いておられました。詩篇に「主よ あなたは私を探り 知っておられます。あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ/遠くから私の思いを読み取られます。……ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ/あなたはそのすべてを知っておられます」(詩篇139:1-4)とあるように、神であるイエスは、私たちの心の思いまでも読み取られるお方です。まして、口に出した言葉は残らず聞いておられます。トマスが「私は…決して信じない」と言ったのは、他の弟子たちに対してで、イエスに対してではなかったとしても、それはイエスに関することですから、イエスはそれを聞き逃されなかったのです。

 最近はあまりみかけませんが、以前は、英語で、こう書かれている額や木彫りを飾ってある家が多くありました。

“Christ is the Head of this house.
The unseen Guest at every meal.
The silent Listener to every conversation.”
「この家のかしらはキリストです。キリストは食卓の見えない客、すべての会話の静かな聞き手です」といった意味です。キリストが私たちが語る言葉を、それが独り言であっても、他の人との会話であっても聞いておられるというのは、ある意味では、ちょっと怖いことです。私たちは、時々、不満を口にしたり、悪い言葉を使ったりするからです。けれども、キリストが聞いておられることは、大きな慰めでもあります。イエスがどんな言葉も聞いてくださるなら、私たちが、「主よ」と言って祈る言葉は必ず聞いていただけるからです。あまりにつらくて言葉にならないような祈りさえもイエスは聞いてくださる。そう信じて、思いと心をイエスに向けることができるからです。

 実際、イエスは、トマスの心の求めに答え、トマスの語った言葉に答えて、トマスに現れてくださいました。「現れた」といっても、幻影としてではありません。実際のからだをもってです。イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい」と言われました。幻なら、ぼんやりしたもので、イエスの姿は見えても、イエスを十字架に打ち付けた釘の跡や、兵士がイエスの死を確認するために、脇腹から心臓をめがけて突き刺した傷跡などくっきり見えるはずがありませんし、ましてや触ることなどできません。イエスはご自分のからだを示し、弟子たちはそれに触れて、イエスが生きておられることを確かめたのです。弟子たちは「復活の証人」です(使徒1:22, 2:32, 3:15, 4:33, 第一コリント15:15)。それは、よみがえられたイエスをチラッと見たといった程度の「証人」ではなく、イエスの声を間近で「聞き」、その姿を「目で見」、その顔を「じっと見つめ」、そのからだを「自分の手でさわって」確認したという意味での「証人」です(第一ヨハネ1:1-2)。キリストの使徒であるためには、そのようによみがえられたイエスを見ていなければなりません。それでイエスは、トマスにもご自分を現し、「あなたは、わたしの復活の証人だ」と、トマスに使徒としての使命をお与えになったのです。

 ところで、皆さん、イエスのおからだに傷跡が残っているのは、不思議なことだと思いませんか。復活のからだは、栄光のからだです。イエスを信じる者は、イエスが再び来られるとき、イエスと同じ栄光のからだに変えられるのですが、それは、どんな傷も、しみも、しわもないもの、どんな弱いところもない、完全なものであると聖書に書かれています。ところが、イエスの両手と脇腹には十字架で受けた傷跡が残っています。なぜでしょう。それは、その傷によって私たちを救ってくださったことを示すため、イエスがあえて残されたのだと思います。イエスの両手の釘跡は、イエスが私たちを罪から贖うために十字架の死を選ばれたことを表し、イエスの脇腹にある傷は、私たちを罪からきよめるために、そこから血を注ぎ出されたことを示しています。イエスがトマスに示された傷は、トマスに復活を確認させるとともに、「この傷は、あなたのために受けた傷だ」と語りかけるものでもあったのです。イエスが現れ、その両手と脇腹の傷を示されたとき、トマスは、イエスの復活とともに、イエスの限りない愛を心から確信したに違いありません。

 三、トマスの告白

 イエスは続いて、トマスに、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われました。トマスは、「私の主、私の神よ」と言って、それに答えました。おそらく、イエスの前にひれ伏してそう言ったことでしょう。「イエスは主です。」これは信仰告白の要約です(第一コリント12:3)。ピリピ2:10-11に「それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」とあります。トマスは「イエス・キリストは主です」と告白して、礼拝をささげる最初の人になったのです。

 しかも、トマスは、一般的にイエスは主である、神であるというのでなく、イエスを「私の」主、「私の」神と言いました。イエスが自分のために十字架にかかり、自分のために復活し、そして、自分のために現れてくださったと信じたのです。「イエスは十字架にかかられた。イエスは復活された。」そのことを知ることは信仰への大きな一歩ですが、それだけでは、まだ信仰ではありません。ローマ4:25に「主イエスは、〝私たちの〟背きの罪のゆえに死に渡され、〝私たちが〟義と認められるために、よみがえられました」とあるように、イエスは私の罪のために死なれ、私が救われるために復活されたと信じ、イエスを「私の」救い主として受け入れ、イエスに信頼するとき、それは、ほんとうの信仰となります。信仰は、イエスが復活されたという事実の上に成り立ちますが、それはたんに「事実」を認めることで終わるのではなく、そこから復活されたイエスに信頼することへと進むものなのです。イエスについての何かの「事柄」ではなく、イエスというご「人格」に人格をもって向かっていくこと、それが信仰です。

 イエスは、トマスに「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです」と言われました。イエスが天に帰られたあとの人々には、「見ないで信じる」ことが求められます。「見ないで信じる」といっても、もちろん、根拠もなく、やみくもに信じるということではありません。使徒たちや他の証し人の確かな証言を通して信じるということです。トマスは他の弟子たちが「私たちは主を見た」と語った言葉を信じることによって、「見ないで信じる」幸いを最初に得ることができたのですが、それを逃してしまいました。しかし、このことで「見ないで信じる」ことがどんなことか、それがどんなに幸いなことかを理解したと思います。トマスは後にインドで宣教したと伝えられていますが、イエスを伝えるとともに、イエスを信じることがどんなことかも良く教えることができたことでしょう。

 このイースターの日、イエスは私たちに「信じる者になりなさい」と語りかけておられます。それに答え、「あなたは私の救い主、私の主、私の神です」と告白しましょう。そして、信じる者とされた喜びを証しする者となりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、このイースターの日、「信じる者になりなさい」とのイエスのお言葉を聞かせていただき、感謝します。よみがえられたイエスを信じます。私たちを見ないで信じる幸いと喜び、また、平安で満たしてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

4/20/2025